556
※この文章は、「他人の不幸について(全7回の1)」「他人の不幸について(全7回の2)」「他人の不幸について(全7回の3)」の続きです。
しかし、他方において、名前を持たない不幸は、ある意味において平凡な、色褪せた、しかし、かぎりなく多様な不幸を含みます。不幸の当事者は、ただひとり、あるいは、ごく少数にとどまるのが普通です。したがって、不幸を噛みしめたり、忘れたり、あるいは、これと戦ったりすることはすべて、孤独な作業となることを避けられません。
名前を持つ不幸は集団的に克服されるべきものであり、これに反し、名前を持たない不幸の方の克服は、不幸が名前を持たないかぎり、あくまでも個人的に試みられなければならないものであることになります。
ところで、「不幸」という言葉を耳にして、その外見として想起するのは、大抵の場合、「名前を持つ不幸」でしょう。けれども、不幸な状態に陥った者の姿の典型として私たちの心に姿を現すのは、「名前を持たない不幸」に苦しむ者の方であるに違いありません。
そして、不幸に2つの種類が区別され、不幸の観念との関係において、両者がこのような位置を占めているのであるなら、私たちがなすべきことは、可能なかぎり多くの不幸に名前を与えて「名前を持つ不幸」へと回収し、他人の不幸を社会全体において担うことができるような作ることでなければなりません。(全7回の5に続く)