※この文章は、「他人の不幸について(全7回の1)」「他人の不幸について(全7回の2)」「他人の不幸について(全7回の3)」「他人の不幸について(全7回の4)」の続きです。
けれども、現実には、不幸というものは、その反対の道を辿ることを避けられません。というのも、私たちがいつまでも憶えていられる不幸は、自分の不幸だけであり、自分が直接に体験しなかった不幸は、すぐに忘れられてしまうからです。
社会は、大規模な、単純な——あるいは単純化しうる——目立つ不幸に名前を与え、これを集団的に克服することを目指します。しかし、すべての不幸は、名前を持つかどうかには関係なく、時間の経過とともにその名を失うことを避けられません。最終的には「名前を失った不幸」あるいは「名前だけの不幸」となり、そして、忘却の淵に沈んで行くこと、これは不幸というものの運命なのです。
たとえば、大規模な自然災害が発生すると、最初は、この災害に名前が与えられ、被災者を襲う不幸に対し社会全体が態度をとります。けれども、時間の経過とともに、社会は大規模な自然災害の被災者たちの不幸は忘れられて行きます。
今から6年前、2016年4月に熊本県と大分県を中心に発生した地震は、「熊本地震」と呼ばれています。この地震は、この10年間に内陸で発生したものとしては最大のものの1つであり、熊本城の崩落した石垣や天守閣の映像とともに、全国民が地震と被災の事実を——したがって、被災者の不幸を——共有しました。今後10年間あるいは20年間、多くの日本人は、「熊本」という地名を目にするとき、あるいは、修復が進行中の熊本城を見るとき、2016年の熊本地震を想起するでしょう。(全7回の6に続く)