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※この文章は、「他人の不幸について(全7回の1)」 「他人の不幸について(全7回の2)」「他人の不幸について(全7回の3)」「他人の不幸について(全7回の4)」「他人の不幸について(全7回の5)」の続きです。
しかし、被災者たち、特に若い世代は、やがて、熊本地震が忘れられるプロセスに立ち会うことを余儀なくされるはずです。彼ら/彼女らが被災者であることを知らない人々、それどころか、震災の事実すら知らない人々が——地元に暮らす者たちのあいだにも、あるいは、旅行者の中にも——彼ら/彼女らの周囲に次第に増えてくるのです。
東日本大震災のような巨大な自然災害についても、東京大空襲、沖縄戦、広島と長崎への原爆の投下のような途方もない規模の惨事についても、事情は同じです。事実を詳細に記録して将来に伝えたり、地名や日時と被災の事実のあいだの結びつきを強固にすることはできるとしても、記憶がそれ自体として「風化」することは避けられません。
これは私の想像ですが、たとえば東京大空襲、沖縄の慰霊の日、広島への原爆投下、長崎への原爆投下の日付を問われ、それぞれ3月10日、6月23日、8月6日、8月9日と即答することができるのは、現在の日本人の1%以下であるに違いありません。
遠くない将来、阪神淡路大震災(1月17日)や東日本大震災(3月11日)の日付もまた、同じ道を辿るでしょう。(全7回の7に続く)