※この文章は、「『企業様』について(その1)」の続きです。
もちろん、その場に居合わせないある人物について「先生」という敬称が用いられる典型的な状況は、その場にいないある人物が会話の参加者全員の「先生」であるときでしょう。
また、会話の参加者の全員がその人物の「弟子」あるいは「患者」ではないとしても、あるいは、会話の参加者のうちに当の人物の「弟子」も「患者」もいないとしても、先生に対して抱く敬意が参加者全員に共有されるのが当然であるなら、その場にいないその人物に「先生」という敬称を用いるのは自然であるに違いありません。
しかし、私が受け取ったメールにおける「企業様」は、私の目には不自然に映りました。そもそも、学生自身、この企業と取引しているのではありません。また、この企業に何か特別な恩があるわけでもありません。さらに、私にはわからない何らかの事情により、学生がこの企業に恩を感じているとしても、私には、この感情が共有されるべきものであることが直観的にはわかりません。たとえこの企業に対する学生の敬意を私が共有するのが適当であるとしても、私には、そのための手がかりが何も与えられていないからです。
「企業様」という待遇表現がいつから使われるようになったのか、私は知りません。私がこの不思議な3文字を初めて見たのは20年くらい前ですが、これは、ことによると、民間企業のみで通用するダイアレクトとしては昔から使われていたのかも知れません。
このみっともない待遇表現は、それ自体としてすでに強烈な「会社員臭」を放っており、その使用が日本語の破壊以外の何ものでもないことは明らかです。しかし、本当の問題は、次の点にあるように思われます。
当の学生は、私が企業の採用活動を教育の妨害と見なしていることをあらかじめ承知しており、それにもかかわらず、「企業様」という待遇表現を私に対して用いることで、企業に対する敬意の共有を私に求めました。親族にも親しい知人にも会社員が1人もいない私にはよくわかりませんが、現代の日本では、「会社員文化」が社会の隅々にまで浸透したせいで、ものの見方が不知不識に歪められているのかも知れません。企業に対する敬意を〈とりあえず無際限に共有可能なもの〉と見なす習慣が支配的になっているとするなら、これは、言語を含む文化全体の危機の兆候として受け止められなければならないように思われるのです。