Home やや知的なこと 私の顔色をうかがう話し相手はなぜ鬱陶しいのか(前篇)

私の顔色をうかがう話し相手はなぜ鬱陶しいのか(前篇)

by 清水真木

 口頭でのコミュニケーションにおいて私たちがつねに気にかけているのは、相手の反応です。警告を発したり叱責したりするために行われるような特殊な会話においてすら、私たちは、自分の言葉が相手に与える影響にその都度あらかじめ注意を向けています。

 そもそも、サルトルの指摘を俟つまでもなく、私の視界のどこかに他人がいるだけで——その他人が一言も口をきかないとしても——私と他人が共有する空間は共有されたものとなり、そこには1つの「磁場」が発生します。目の前にいる誰かと言葉を交わしながら、この誰かの反応をまったく気にかけないとは、相手を「人間」と認めないのと同じことです。正常な神経の持ち主なら、目の前にいる相手をこのように扱うことは不可能でしょう。

 相手が動物の縫いぐるみ——私自身には縫いぐるみと話す趣味はありませんが——であっても、私たちは、「この縫いぐるみが人間だったら」という想定のもと、反応をたえず予想しながら言葉を投げかけるはずです。そもそも、声を発するというのは、このようなものなのです。(純粋なモノローグが不可能であるのもまた、同じ理由によります。)

 新型コロナウィルス感染症の流行が始まって以来、大学の教師の多くは、授業を維持するために動画を作成して配信しなければならなくなりました。私もまた、2020年の4月から、さまざまな機会にさまざまなタイプの動画を作ってきました。しかし、動画を作ることは、私にとってはつらい作業です。というのも、話しかける相手の反応がまったくわからないまま、まとまったことを話さなければならないからです。

 以前に述べたように、授業というのは、本来、形態に関係なく双方向的なものであり、つねに学生の反応を見ながら進行するものです。動画を作るときに可能なのは、視聴する学生の反応を予想することだけであり、私の話が実際にどのように受け止められているのか、確認することができません。この状況のもとで何時間も話し続けるのは、私には大変に苦痛です。

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