※この文章は、「私の顔色をうかがう話し相手はなぜ鬱陶しいのか(前篇)」の続きです。
しかし、(授業を含めて)会話というものが相手とともに話題を紡ぎ出す共同作業であるとは言っても、これは、相手の顔色をうかがうことからは区別されなければなりません。というのも、会話において相手の顔色をうかがうというふるまいは、オープンな会話に参入して1つの場を作る試みであるというよりも、むしろ、その場を自分の思い通りに支配することへの欲求の反映と見なされるべきものだからです。
会話において私の顔色をうかがう者は、少なくとも表面的には、私から気に入られることを望んでいるのでしょう。しかし、私が会話の相手を気に入るかどうかは、私の内面、つまり、他人のコントロールの及ばない領域の問題であり、他人の意のままにはなりません。
ところが、会話において私の顔色をうかがう者は、私を細かく観察しながら、会話の場を完全に支配し、彼/彼女が望む応答を私から引き出そうとします。私の返答が0.1秒くらい遅くなっただけで、これを彼/彼女の発言に対する不満足と勝手に受け取り、鎌をかけるような質問を次々に繰り出してきたりします。私の返答が0.1秒遅れたのは、タバコの煙が目にしみたからにすぎず、彼/彼女とは何の関係もないかも知れない、などという可能性は、彼/彼女の心には一切浮かばないはずです。
大抵の場合、彼/彼女は、自分が私に従属あるいは依存しているという(基本的に誤った)認識に囚われています。そして、この認識を前提として、私をコントロールすることを目指す「ゲーム」を勝手に仕掛けているのです。
顔色をうかがう者が鬱陶しく感じられるのは、そして、顔色をうかがう者との会話が不毛に感じられるのは、彼/彼女が(話題の生産的な創出の努力ではなく)私を操るむなしい努力を私の前で演じ続けているからです。他人の顔色をうかがうことは、悪であるというよりも、単純な徒労です。会話において私たちにできることは、相手の言葉に耳を傾けながら、自分と相手の関係を前提として、その場をできるかぎり生産的なものにするよう心がけること以外にはないのです。