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アメリカのテレビドラマについて(後篇)

by 清水真木

※この文章は、「アメリカのテレビドラマについて(前篇)」の続きです。

 私がアメリカのテレビドラマを観るのには、少なくとも2つの理由があります。

 第1に、私がアメリカのテレビドラマを観るのは、画面に登場する実際の(物理的な)アメリカを——その汚さや安っぽさを含めて——見物するためです。なぜかはわかりませんが、ドラマに登場するような「アメリカっぽい」眺めが好きだからです。私は、アメリカのテレビドラマを一種の「環境映像」として利用していることになります。

 当然、現実のアメリカが映っていることは、観る番組を決めるときの基準の1つとなります。特に、ニューヨーク、ワシントン、シカゴ、ロサンゼルス、ハワイなど、特定の場所との結びつきが明らかなドラマについては、少なくとも第1話はできるかぎり観ることにしています1

 第2に、テレビドラマを観ることにより、アメリカの視聴者が社会生活において暗黙のうちに前提としているステレオタイプがわかることがあります。「黒人」「アジア人」「法律家」「不法滞在者」などをめぐるステレオタイプが——ときには不知不識に、ときには意図的に——ドラマに埋め込まれているからです。

 テレビドラマが描くアメリカは、現実のアメリカ社会ではなく、ステレオタイプのパッチワークにすぎません。それぞれのドラマを正確に評価するためには、この事実をあらかじめ承知していることが必要であるように思われます。

 なお、「細々と」ではあるとしても、20年近くもアメリカのテレビドラマを観続けているうちに、強く惹きつけられるストーリーに出会うことが少なくなりました。(むしろ、既視感に襲われることが多くなりました。)また、初めて観るシリーズの場合、続けて視聴するに値するかどうか、私に合うかどうかは、番組が始まって10分以内にわかるようにもなりました。

 もちろん、興味を惹かれて観始めたものの、何回分か、あるいは、何シーズン分か観たあと、急に飽きて観るのをやめてしまうこともあります。むしろ、シーズン1の第1話から最終シーズンの最終話まですべて観ることの方が稀であるかも知れません

 アメリカのテレビドラマを観ることは、私にとっては、数少ない「完全な消閑」の手段、つまり、何のアウトプットにも直接には結びつけられていない活動です。その証拠に、私には、今のところ、「もう一度観たい番組」というものがありません*3。当然、仕事が忙しいときには、テレビを観る時間は最初に削られることになります。(私にとり、テレビドラマは沼ではなく、したがって、趣味としての資格を満たしていないように思われます。)

 ただ、テレビドラマを観るもっともらしい理由を上で説明しましたが、残念ながら、今のところ、私には、テレビドラマを観るのに時間を費やすことを正当化することができていません。むしろ、テレビを観るたびに、「どうしてそんな無駄なことに時間を使っているんだ?」という声が心の中で繰り返し響きます。

 それでも、この純粋な無駄、つまり、その内容をすべて忘れてしまっても誰からも咎められないおかげで、価値ある余裕が心に生まれることは確かであり、私としては、この余裕をあえて大切にしたいと考えています。そもそも、内容を片っ端から忘れてしまうことが許されず、何もかも記憶/記録し、アウトプットに結びつけなければならないとしたら、テレビドラマなど最初から観る気になれないに違いありません。

  1. それなら、テレビドラマの代わりに、”city + tour + walk”などのキーワードで検索するとヒットするYouTubeの動画を連続して再生させる方がよほど効率的なのではないか、と指摘する人がいるかも知れません。もっともだと思います。 []

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