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私は、「多読」や「速読」を実践していると公言する人々、「多読」や「速読」に何らかの意味と価値を認める人々を信用しません。私の理解では、「多読」や「速読」は、読書ではないからです。
「多読」なるものが「少なく読む」ことから区別された「たくさん読む」ことであり、「速読」なるものが「ゆっくり読む」ことから区別された「速く読む」作業を意味するのなら、このような意味における多読や速読ほどナンセンスなものはありません。というよりも、このような読書は不可能です。なぜなら、読書について可能なのは、その内容にふさわしい分量を、その内容にふさわしい自然なスピードで読むこと以外の何ものでもないからです。つまり、読む分量や読むスピードは、書物の内容に即して自然に決まるものであり、「よし、速く読むぞ」などと意気込んでみたところで、読み手が勝手に決めることができるようなものではないのです。読み手に予備知識がない分野の書物ならノロノロと読まざるをえないでしょう。(マラルメの詩を「速読」することが可能であるとして、この経験には、どのような意味があるのでしょうか。)反対に、熟知の分野に関する本は、表紙と目次とあとがきに目を通すだけでこれを「読んだ」ことになるかも知れません。
ビジネス書の著者たちが何を言おうと、言葉の本来の意味における「読書」において、読むスピードというものは、決して読み手の意のままにはならないのです。