3月3日、作家の西村京太郎氏が亡くなったというニュースに接しました。
私は、西村氏の作品をこれまで数点しか読んだことがありません。(また、西村氏の作品は、その多くがテレビドラマ化されていますが、これについては、私は、1つも観たことがありません。)公刊された著作が700点近いそうですから、私には、西村氏の愛読者を名乗る資格などないことになります。
ただ、私は、西村氏の執筆活動に対し、ながいあいだ、ひそかに勝手に敬意を抱いてきました。(「それなら、もっと作品を読めばよかったじゃないか」と言われそうですし、そのとおりだと考えて反省しています。)
西村氏について私が特に賛嘆するのは、長期間にわたり膨大な著作を執筆、公刊し続ける「生産力」です。少なくともこの点に関し、西村氏の名は、ながく記憶されるに値すると私は考えています。
私は、以前、西村氏の行動に密着して取材したテレビ番組を観たことがあります。画面の中の西村氏は、取材に出かけるとき以外、朝起きたときから夜眠りにつくまで、腰かけていても横になっていても、つねに400字詰めの原稿用紙を目の前に置いて文章を書き続けていました。食事すら、執筆しながら仕事場で済ませていました。
また、私の記憶に間違いがなければ、西村氏は、執筆においてパソコンを使用せず、原稿用紙のマス目をみずから手書きで埋めていました。
これだけの点数の著作を公刊してきた作家なら、口述筆記を利用したり、別のライターが用意した下書きに手を入れて原稿を完成させたりしていても不思議ではありません。しかし、私が観た番組のかぎりでは、西村氏は、(情報収集にアシスタントを使っていたとしても、)執筆に関しては誰の手も借りず、途方もない時間を費やし、ただひとりで原稿用紙と向き合っていたようです。これは、21世紀の文学界においては希有な事例であるに違いありません。
私には、西村氏の作品の内容について論評する資格はありません。それでも、西村氏が、いくらかの金銭と引き換えに購うに値すると多くの読者が認めるだけの品質の小説を50年以上にわたって産み出し続けたことは事実であり、私は、その力量——体力と集中力の制御——を無条件で評価します。これが、多少なりとも「知的」な生産活動に従事するかぎり、誰もが獲得を目指すべき徳であると考えるからです。