※この文章は、「AIの未来の語り方をめぐる疑問(前篇)」の続きです。
そもそも、AIが「ニセの知性」であるかぎり、AIは人間というモデルから離れられません。AIに関する研究の少なくとも半分は、人間に関する研究とならざるをえないはずなのです。
「ポストヒューマン」「トランスヒューマン」という安直な造語についてもまた、事情は同じです。
そもそも、人間の次に来るはずのもの、人間を超えるはずのものを表現するのに、それぞれ「ポストヒューマン」「トランスヒューマン」という言葉を用いることしかできないという事実は、これらの言葉の意味(「シニフィエ」)に当たるものの中に、「ヒューマン」を素材としないものが何も含まれていないことを雄弁に物語ります。表現をあらためるなら、「ポストヒューマン」や「トランスヒューマン」の概念を構成する要素はすべて、「ヒューマン」に属すると一般に考えられる性格であり、私たちにとって既知のものです。ポストヒューマンやトランスヒューマンが本質的に新しいものであるなら、「ヒューマン」という言葉に頼ることなく、それぞれにふさわしい規定が試みられるはずなのです。
「ポストヒューマン」や「トランスヒューマン」の名のもとで描かれるAIの未来は、「死後の世界」なるものについて伝統的に描かれてきたものと本質的には同じであると言うことができます。
この世に生きる者は誰ひとり、死後の世界を実際に訪れたことがありません。したがって、死後の世界の記述は、この世界(つまり現世)の内部にあるものの組み替えによる他はありません。
時代や地域には関係なく、死後の世界に含まれるものを分解するなら、それぞれの要素は、1つの例外もなく、この世界において見出されるものです。死後の世界には本質的に新しいものは何もありません。同じように、「ポストヒューマン」や「トランスヒューマン」の名のもとに記述される未来のAIや世界もまた、否応なく、現在の世界を形作るものの寄せ集めであり、本質的に既知のものにとどまります。
AIの未来、権利、責任、効用などについて有意味なことを語ることを望むのなら、人間とその知性の本質を問うことは避けて通ることができない課題であるように私には思われます。