日常生活においても、また、文字を書くときにも、使わないよう心がけている表現がたくさんあります。私が「使わないよう心がけている」表現というのは、「差別的」と受け止められかねないような表現のことではなく、見方によってはごく普通の表現であり、日本語の空間の内部なら、どこにでも見られるものです。
たとえば、私は、「・・・・・・てあげる」あるいはこれと似た文末表現を使うことに慎重です。少なくとも、「私」を主語とする文では原則として使いません。口頭でも文章でも、不適切な表現としてこれを自覚的に避けているからです。この表現を避ける場面は、大きく2つに分かたれます。
一方において、私は、人間以外の生物に働きかけるとき、この表現を使いません。たとえば、「○○(←飼っている小鳥の名前)に餌をあげる」「犬を散歩に連れて行ってあげる」というような文はは、厳密には「誤用」とまでは言えないものの、あまり適切ではないように思われるからです。というのも、この場合の「・・・・・・てあげる」は、「・・・・・・てやる」を丁寧にしただけのものではなく、それ自体として待遇表現の一種であり、動作の相手に高い位置を与えるものだからです。当然、このような表現を人間以外の生物に用いることは適当ではありません。正しい表現は、「小鳥に餌をやる」「犬を散歩に連れて行ってやる」であり、日本語としては、これで十分に丁寧であると私は考えています。
しかし、他方において、人間に対する何らかの働きかけを言い表すときにも、主語が「私」であるかぎり、「・・・・・・てあげる」を可能なかぎり他の言葉に置き換えることにしています。というのも、この場合の「・・・・・・てあげる」は、相手の「・・・・・・てください」に(必ずしも明示的ではないとしても)呼応して用いられるものだからです。「してください」に対し「してあげます」と応じることは、相手の感受性によっては恩着せがましく受け止められる危険があると私は考えています。何かを「・・・・・・てください」という表現とともに依頼されたら、「・・・・・・します」と応じるか、あるいは、丁寧に応じることが必要である場合は、「・・・・・・させてもらいます」などと返答します。ともかくも、私は、「・・・・・・てあげる」「・・・・・・てあげます」などを、何かの事情によりよほど追い詰められないかぎり、あるいは、「恩着せがましさ」を強調するつもりがないかぎり、みずからに禁じています。
最低限の格調を具えた日本語というのは、私がつねに目指しているものであり、この目標を実現するため、特定の表現をあえて避けたり、文脈や用法を限定したりするような実験を日々繰り返しています。言語の格調にとり、一種の不自由は前提の1つなのです。