「高等教育はいかにあるべきか」という問いには、これまで、無数の答えが与えられてきました。しかし、これらは、答えを与える観点にもとづき、さしあたり、次の3つに区分することができるように思われます。すなわち、「需要側からの高等教育論」「供給側からの高等教育論」「外野からの高等教育論」の3つです。
しかし、これから述べるように、私自身は、これら3つのいずれも無効であると考えています。
まず、「需要側からの高等教育論」は、厳密に言うなら、高等教育論ではありません。これは、「高等教育はいかにあるべきか」という問いに対する答えであるというよりも、学生や両親が「制度としての大学」に発するかも知れない要求、要望、不満の寄せ集めにすぎないからです。「授業料を下げろ」「もっと面倒を見ろ」「余計な勉強させるな」「就活支援を充実させろ」・・・・・・。これらは、高等教育の使命をめぐる何らかの見解にもとづくものではないと考えるのが自然です。
次に、「外野からの高等教育論」というのは、財界の関係者、起業家、政治家などの発言を指します。大学の内部に身を置く者にとっては、大学に対する外野の要求や期待の大半は見当外れです。私など、「大学にそれを期待しないでほしい、よそでやってくれ」と言いたくなることが少なくありません。10年近く前に話題になった「G型大学/L型大学」は、見当外れの典型です。
外野の発言もまた、需要側からの発言と同じように、高等教育の固有の使命をめぐる問いの答えというわけではありません。「大学は社会に奉仕すべきもの」という誤解を前提として「大学を社会にいかに奉仕させるか」を問い、そして、この問いに答えを与えようとしているにすぎないのです。
「高等教育とはそもそも何であるのか」「大学は何のためにあるものなのか」「大学において何が教えられ、何が学ばれるべきであるのか」、このような点について意味のあることを語ってきたのは、「供給側からの高等教育論」、つまり、大学の内部に身を置く者の言葉だけです。本来の高等教育論というのは、供給側、つまり、大学の内部から試みられたものだけであると私は考えています。(後篇に続く)