しばらく前、次の記事を読みました。
あらかじめ言っておくなら、私は、この文章が語ることのすべてに反対します。大変に失礼なことを言うようですが、筆者は、大学という制度の趣旨、そして、大学において開講される授業の趣旨を完全に誤解しているように私には思われます。
私が特に同意しかねるのは次の点です。すなわち、筆者は、大学における教員の任用や昇格が主にその研究成果にもとづいて行われることを問題視し、学生の学習との関係において、教育について保証された能力を持たない研究者によって授業が行われることを否定的に評価します。
むしろ、大学で外国語の授業を開設するなら、その担当者は、学内にいる研究者ではなく、教えることのプロである語学学校の教師の方が好ましいと筆者は語ります。実際、筆者には、在職していた大学において、このような人事を提案し、そして、学内で斥けられた経験があるようです。
しかし、大学という装置、および、この装置の内部において学生が学ぶべきものとの関係で言うなら、筆者の主張は根本的に誤りであるといわなければなりません。人事に関する筆者の提案が斥けられたのは——理由は明らかではないとしても——少なくとも結果として妥当である私は考えます。教えるのが上手な語学学校の教師を連れて来て授業させればよい、という主張を受け容れることは、大学の使命の自己否定に当たるからです。
そもそも、大学というのは、教育機関として見るなら——ここでは「研究者」という大げさな表現をあえて用いないことにします——「知をみずから生産する者」が、自分の蓄積した知見を学生に教授する場です。
小学校、中学校、高等学校において、児童や生徒が獲得する知識や技能は、基本的にすべてパッケージ化され、完結した体裁を与えられています。児童や生徒には、このパッケージにみずから手を加える資格は与えられていません。
これに対し、大学は、知識や技能をパッケージとして教える場所ではありません。大学の授業はすべて、
- (a)大学において学生が獲得するはずの知識、技能、経験などが、それ自体としては未完成であり、今後の学問の進歩や状況の変化によっては修正を必要とする可能性があるばかりではなく、
- (b)学生がこれを自力で修正すること、換言すれば、教師が実践しているはずの知の生産にみずから参入することもまた推奨されている
という建前のもとで開講されています。外国語、体育、情報教育など、教育内容がパッケージ化されているように見える授業科目についてもまた、事情は同じです。