※この文章は、「『語学学校の教師の方が大学の語学教師よりも教え方が上手だから、大学の語学の授業は、語学学校の教師にやってもらえばよい』という意見について(その1)」の続きです。
当然、大学が開講する外国語の授業が目指すものは——具体的に設定される目標は大学によりまちまちであるとしても——語学学校の授業が目指すものと同じであるはずがありませんが、少なくとも、各種検定試験で高いスコアを獲得したい、日常会話に不自由しないようになりたい、などが大学における外国語の授業の到達点となるはずはないでしょう。
大学の授業の本質が、ひとまとまりの知識や技能のパッケージを提供することではなく、広い意味における「知」の生産と進歩の現場に学生を立ち会わせること1 であるかぎり、授業内容が「与しやすい」「わかりやすい」という印象を与えることはないでしょう。なぜなら、みずからが知の生産に悪戦苦闘していながら、学生に対しては、自分の専門とする分野について「簡単だよ」「すぐにできるようになるよ」と(みずからは信じてもいないことを)公言するなど、ありうべからざることだからです。当然、授業が語学学校や予備校の授業のような滑らかなものとなるはずもありません。そして、これが、大学の授業の正常な姿なのです。
そして、大学の授業の本質がこのようなものであるなら、学生の前に立つために必要な最低限の資格とは、知の生産に従事してきた経験以外ではありえません。みずからは知の生産に一切携わらず、パッケージ化された知識を身につけ、これを伝達する技術を持つだけの「単なる教師」にできることは、このパッケージ化された知識をスマートに伝達することにとどまります。その授業は、学生を知の生産の現場へと誘う何の「ひっかかり」も「疑問」も含まないはずです。
知の生産と進歩の現場に学生を立ち会わせ、学生を知の生産へと参入させることができるとするなら、それは、知を生産する者だけなのです。
小学校、中学校、高等学校の教育、つまり、初等中等教育については、文部科学省が、学習指導要領によりその内容を詳細に定めています。学校の授業は、標準化されパッケージ化された(完結しているかのように装われた)知識や技能の伝達以外の何ものでもなく、児童や生徒は、このような知識や技能を丸ごと受動的に引き受ける能力にもとづいて評価される他はありません。また、初等中等教育では、このようなプロセスを避けて通ることはできないでしょう。
もちろん、高等教育にも学習指導要領のようなものを定めて教育内容をパッケージ化し、同名の科目については、どこの大学で誰が担当する授業でも同一の内容が同一の進度で教授されなければならなくなるとしたら、そのときには、小学校、中学校、高等学校の教師と同じような教師、研究業績を何も持たない「単なる教師」が授業を担当することに不都合はなくなるかも知れません。
しかし、このような教育が行われる装置はもはや「大学」ではなく、初等中等教育の延長上にある「学校」にすぎません。標準化された知識と技能のパッケージを提供する場になることは、大学の死であると私は考えています。
- 当然、学生は、授業において、みずからの知識が無に等しいことを確認し、知識の獲得へと主体的に向かわなければなりません。 [↩]