Home 高等教育 いわゆる「教養教育」を軽視してきたせいでわが国が文化的「後進国」へと転落するかも知れないことについて(全4回の2)

いわゆる「教養教育」を軽視してきたせいでわが国が文化的「後進国」へと転落するかも知れないことについて(全4回の2)

by 清水真木

※この文章は、「いわゆる「教養教育」を軽視してきたせいでわが国が文化的『後進国』へと転落するかも知れないことについて(全4回の1)」の続きです。

 したがって、人文科学の専門的な研究が維持されている社会というのは、人文科学についてこの圧力に抵抗するだけの文化的な裾野がある社会、それなりの規模の研究者あるいは「研究者予備軍」(?)や「研究家」の集団が形成されている社会、つまり、予算削減の圧力をある程度まで跳ね返すことができる文化的な「体力」のある社会であると言うことができます。

 現在のところはまだ、わが国の大学には、純然たる人文科学系の学部(典型的には文学部)があり、ある程度の数の研究者や学生を受け容れ続けているように見えます。人文科学については、今のところ、教育と研究について安定した均衡状態がそれなりに維持されているように見えます。言い換えるなら、さまざまな圧力にもかかわらず、わが国は、今はまだ、文化的な意味における「先進国」の位置にかろうじて踏みとどまっているように見えるのです。「先進国」という語によってわが国の現状を表現することができるのは、このような安定した状態が世界のどの国にも見出されるものではなく、むしろ、日本以外では、ヨーロッパおよびアメリカの少数の民主主義国においてのみ実現されている稀有なものだからです。(特に、独裁国家では、人文科学が顧みられることはほとんどありません。)

現在の日本は文化的には「崖っぷち」にいる

 しかし、私には、現在の日本がこの点に関し「崖っぷち」にあり、何かのきっかけによって「後進国」に転落する危険が大いにあるように思われます1 。(私の勘違いであればよいのですが。)理由は以下のとおりです。

 上において、私は、「教養教育が痩せ細ると人文科学が衰退する」と言いました。それは、教養教育に相当する授業科目を担当する教員の大半が文学部あるいはこれと同等の人文科学系の学部、大学院の出身者だからであり、教養教育の主体となっているのが人文科学だからであり、人文科学の研究者全体のうち、相当な部分が教養教育の担当者として大学に所属しているからです。

 日本の人文科学研究の巨大なコミュニティ全体を富士山に喩えるなら、教養教育を担当する教員というのは、「愛好家」や「マニア」や「読書家」——これが裾野に当たります——の上に立つ雲の上の部分、おおよそ6合目よりも上の部分に属しています。大学における教養教育というのは、少なくとも20世紀までは、(必ずしも山頂ではないとしても、)この範囲に位置を占める大量の人材を吸収することにより、研究の基盤となる文化的な裾野を広げるとともに、わが国の文化的なステータスの維持に貢献してきた、あるいは、貢献を本来の使命とするものであると言うことができます。教養教育に相当する制度、組織、カリキュラムは、この点に関し、見方によっては、専門教育を中心とする学部や大学院よりも大きな役割を担ってきたように思われます。(全4回の3に続く)

  1. つまり、日本以外の多くのアジア諸国と同じようになるということです。 []

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