※この文章は、「いわゆる『教養教育』を軽視してきたせいでわが国が文化的『後進国』へと転落するかも知れないことについて(全4回の1)」「いわゆる『教養教育』を軽視してきたせいでわが国が文化的『後進国』へと転落するかも知れないことについて(全4回の2)」「いわゆる『教養教育』を軽視してきたせいでわが国が文化的『後進国』へと転落するかも知れないことについて(全4回の3)」の続きです。
以前、次のような文章を書きました。大学における語学の授業は、「教えるのが上手な」語学学校の教師に担当させればよいのではないかという意味の主張を暴論として取り上げ、これに関連し、大学における語学教育の本来の意義、および、研究者がこれを担当するのが適当である理由を説明しました。(下に続く)
学生には、このような授業の価値を評価することはできません。(学生を貶めているのではありません。「権利上、履修している時点では授業内容を評価する能力がない」というのが学生というものの能力の規定だからです。授業内容を評価する能力があるのなら、当の授業の内容はあらかじめ完全に理解できており、したがって、学生として「教えてもらう」ことなど何も残っていないはずです。)また、少なくとも今のところ、世間や官僚や政治家や企業経営者たちが事情を把握して正気に返る可能性はゼロにかぎりなく近いように思われます。それだけに、教養教育を内外の圧力から守り、人文科学、および、これを支える人的資源を守る役割は、それぞれの大学が担わなければならないものであると言うことができます。
「複眼的にものを見る能力」(?)
ところで、「教養教育の意義とは何か」という問いに対するもっとも平均的な答えを要約するなら、「複眼的にものを見る能力の涵養」あるいはこれと似た表現になるでしょう。しかし、現在のわが国の教養教育にこのような効用を期待することは不可能です。
もちろん、上に述べた旧制高等学校のように、「朝から夕方まで教養教育のみ」の生活が3年間も続くのなら、この間に、「意識が低い」学生でも、みずからの人間的な成長を促す何かを手に入れるでしょう。しかし、現在は、どの大学でも、教養教育に配分されているのは、「複眼的にものを見る能力」などという崇高な理想とは滑稽なほど不釣り合いな「おしるし程度」の単位にすぎません。
このような状態では、「複眼的なものの見方」を身につけさせられないどころか、「複眼的なものの見方」なるものがあることに気づかせることすらできないでしょう。教養教育が学生の目に「単なる無駄」としか映らないとしても、仕方のないことであるに違いありません。
大半の学生の大学への入学動機は、名目上は、「興味のある学問分野を勉強すること」であるに違いありません。この名目上の入学動機が実行に移されるなら、当然、学生は、専門科目の内容については、放っておいてもある程度までは自発的に勉強するはずです。また大抵の場合、これが現実であると思います。しかし、教養教育については、事情は異なります。現在の高等教育の枠組の内部において「複眼的にものを見る能力の涵養」などという理想の実現を真面目に期待するのなら、大学設置基準が卒業に必要な単位として定める124単位の少なくとも半分、つまり、最低でも62単位は教養教育に割り当てられること、大学を(専門教育のための機関ではなく)、反対に、専門教育に従属しない教養教育のための機関として規定しなおすことが必須であると私はひそかに考えています。