※この文章は、「奨学金の思い出について(前篇)」の続きです。
日本育英会の奨学金は——おそらくバブルの直前に——「学業面での費用対効果」から「貧困の程度」へと、支給の基準が大きく変化しました。そのせいで、今でも、私が「奨学金をもらったことが一度もない」と伝えると、上の世代の方々からは微妙な反応が戻ってきます。たしかに、日本育英会の奨学金の支給が学力を基準とするものなら、これを一度も受給しないまま博士課程に進学し、学位論文を執筆し、専任のポストを獲得するなど、ありうべからざることであるに違いありません。
実際、私のすぐ上の世代までは、博士課程への進学者の全員が日本育英会の奨学金を受給していたはずです。ことによると、私は、東京大学の哲学研究室において、日本育英会の奨学金を一度も受給することなく学部と大学院の全課程を終えた最初の人間かも知れません。
私は、修士課程に入学した直後に奨学金の選考で落選したのち、奨学金を最終的に諦めました。「貧乏競争」に勝つ可能性はなかったからです。その代わり、修士の2年の秋、修士論文を完成させたあと、日本学術振興会特別研究員の「DC1」に応募し、そして、採用されました。(DC1は、博士課程の1年生から3年間にわたり研究費を支給されるタイプの研究員です。)特別研究員の選考は、研究計画と成績のみにもとづくものであり、さすがに、家計の事情は一切問われませんでした。
奨学金の支給の目的が優秀な学生を対象とする「学業に必要な費用の補助」であるのか、それとも、困窮した学生の「生活扶助」であるのか、これは意見が分かれるところであるに違いありません。
私自身には、奨学金について、本当に勉強する学生のために、使途を限定して支給するのが適当であるように思われます。言い換えるなら、科学研究費補助金と同じように、奨学金は、本、パソコン、筆記具、文献のコピー代、調査のための旅費などには使えても、食費やスマホ代は奨学金から支出することができないようにすべきであり、奨学金は、本人ではなく大学が管理すべきであると私は考えています。(現金を学生本人に直に渡すと、奨学金の趣旨に反する用途に使われる危険があるからです。)特に、日本学生支援機構の奨学金の原資は国民が納める税金です。奨学金は、学業に関し目に見える成果を出す可能性が高い学生に優先的に支給し、その成果を国民に還元してもらうのが筋でしょう。この点において、私は、日本学生支援機構の奨学金を始めとして、税金を原資とする各種の奨学金の受給者の選考基準や奨学金の支給方法について、大きな疑問を抱いています。
しかし、私がこのように考えるのが、日本育英会の奨学金の趣旨が前者から後者へと一変した時期に学生時代を過ごし、奨学金とは最後まで縁がなかったせいであるのかも知れません。