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「散見される」という表現があります。日本語の使用に敏感な人ならすぐにわかるように、「散見される」は誤った表現です。正しくは「散見する」でなければなりません。具体的には、Xがあちこちで目につくとき、この事態は、「Xが散見する」と言い表します。決して「Xが散見される」ではありません。
そもそも、「散見する」は自動詞であり、したがって、この動詞には、「受動形」に相当するものがありません。「散見される」というのは、それなりに昔からある間違いです。私が「散見」という言葉を覚えた中学生のころ(1980年代初め)にはすでに、「散見される」というおかしな表現は、広い範囲で流通していました。最近では、「散見」を無理やり他動詞化して生まれた「Xを散見する」という意味不明な表現を見かけることすらあります。「散見される」の能動形のつもりなのかも知れません。
以前に述べた「具現化する」「ひもとく」と同じように、格好をつけて「散見される」という表現を使うと知的水準が露呈してしまいます。「散見される」という言葉を使ってみたいという誘惑に駆られても、さしあたり、「目につく」という表現によってこれを置き換えておくのが無難でしょう。