すべての「もの」には色があります。(もちろん、無色透明な物体がないわけではありませんが、「無色」もまた、色の一種と見なすことができます。)常識的に考えるなら、「もの」に具わる色はすべて、「もの」が反射しない波長の光であり、「もの」が記号としてみずからを他から区別するための標識となる何か——シニフィアン——であると言うことができます。
ところで、すべての「もの」には色があるのと同じように、すべての色は「もの」の色です。「もの」から区別された「色そのもの」、たとえば「赤そのもの」や「黒そのもの」はフィクションです。
そして、このような事情を考慮するなら、色は、基本的に「もの」に帰属する何か、つまり、「『もの』の色」でしかありえないことになります。「もの」と「もの」の色はつねに一致します。ある「もの」は、つねにその色でしかありえず、また、その色はその「もの」に固有の色であり、したがって、かぎりなく多様なのです。
ところで、日本語の語彙には、色に関する表現が多量に含まれています。赤、青、白、黒などの語があるばかりではなく、「瑠璃」「小豆」「抹茶」「鳶」など、一般に「和色」と呼ばれる多様な色がそこに属しているのです。
これらの「和色」は、基本的にすべて、その色が典型的に認められる「もの」の名を持っています。一つひとつの「もの」は、その都度その固有の色を帯びて姿を現すこと、色を「もの」から区別することはできないこと、色のあいだに認められる秩序と「もの」の秩序が同一であること、和色は、「もの」に対するこのようなまなざしを前提として使われてきたに違いありません。
「もの」の秩序と色の秩序が同一であるかぎり、「もの」の色は、16進法の「カラーコード」のような固定した値で表されることはありません。むしろ、それは、ある程度の幅と変化を許容するもの、他の色との関係で相対的に決まることになるでしょう。たとえば、「もの」としての小豆は、どのような状況のもとでも「小豆色」でしかありえませんが、小豆の鮮度や周囲の明るさにより、「小豆色」がそれ自体として微妙に変化する余地を残しているはずです。
私たちは、色を「もの」から区別し、これを「もの」の表面に付着する何か、視覚を刺戟することにより当の「もの」の性質を告げる何かであると考えることになじんでいます。けれども、本当に存在するのはあくまでも「もの」であり、色ではありません。和色のカタログは、色を「もの」から区別せず、「もの」を色において、色を「もの」において思考することの可能性を告げているように思われるのです。