※この文章は、「動物には言語があるか(前篇)」および「動物には言語があるか(中篇)」の続きです。
「言語を持つ」と言うことができるためには、複雑なメッセージを単純なメッセージへと分割し、これを組み合わせることができるだけでは不十分であり、単語への分割が必須です。というのも、言語を持つとは、複数の要素を決まった順序で線形的に排列するとともに、排列された文が、これまで耳にしたこともなく、目にしたこともない新しいものでなければならないからです。
私の見るところ、シジュウカラにできるのは、生活の場面において必要となるワンセットの、かつ、行動と一体をなすメッセージを、その行動の順序に従って鳴き声の形で発することにすぎません。「ピーツピ・ヂヂヂ」が有意味であり、かつ、「ヂヂヂ・ピーツピ」が無意味であるという事実は、それ自体としてはまだ、シジュウカラが言語を持つことを告げるものではなく、また、その言語行動の順序から独立した文法を持つことの証拠にもならないはずです。
人間には、既知の単語を正しい順序で排列することにより、これまで耳にしたこともなく、目にしたこともない新しい文を作ること、つまり、自分にとって完全に新しい事態を言い表す能力が具わっています。言語の能力とは、文法にもとづいて新しい文を作る能力でもあるのです。
シジュウカラが本当の意味における言語を持つと言うことができるためには、(1)シジュウカラの分節が「警戒しろ」や「集まれ」のような、それ自体として(サバイバルに必要な)意味のあるメッセージではなく、「単語」を基本単位とするものであること、そして、(2)シジュウカラが言語の基本単位としての「単語」を組み合わせることにより、完全に新しい事態を表す文を作ることが確認されなければならないでしょう。
ただ、「シジュウカラ語」(?)による新しい文を自由に産み出すことで、生活の差し迫った必要とは関係のない下らないおしゃべりに興じたり落語を創作したりするシジュウカラを確認することができるなら、そのとき初めて、シジュウカラに言語があると言うことができるでしょう。しかし、たとえそのようなシジュウカラがいるとしても、人間にその言語を理解することができるかどうかはわかりません。シジュウカラと人間では、「現実」がまったく異なるかも知れないからです。
異なる時代や地域において用いられた異なる言語でも、これが人間に由来するものであるかぎり、私たちはこれを理解することができます。言語には、言語であるかぎりにおいて具えている共通の構造があるからであり、また、言語を持たない人間はいないからです。しかし、「シジュウカラ語」が人間の言語と同じような構造を具えているとはかぎりません。この点を理解するためには、シジュウカラが見た世界なるものに深く沈潜することが必要となるに違いありません。
この意味において、人間以外の動物にも言語があるという主張には、今のところはまだ、多くの留保が必要になるように思われます。