Home 高等教育 何がどうなると大学は「グローバル化」したことになるのか(その1)

何がどうなると大学は「グローバル化」したことになるのか(その1)

by 清水真木

10年以上前から、わが国のいくらか名の通った大学はすべて、「グローバル化」(または「国際化」)と呼ばれるものを目指して狂奔してきたように見えます。

しかし、この間ずっと大学の内部に身を置いていたにもかかわらず、私には、この「グローバル化」なるものが本当は何を意味するのか、必ずしもよくわかりません。

大学を「グローバル化」させることは、さしあたり、「世界大学ランキング」などと呼ばれるいくつかの私的な*1国際比較において順位を上げることを意味するものとして受け止められています。そして、「ランキング」における順位を上げるためには、指標となる数値を改善しなければならない、と普通には考えられているようです。(実際、多くの大学は、毎年、「ランキング」の順位の微妙な変動に一喜一憂しています。)

「卒業に必要なすべての単位を英語による授業のみで揃えることができるかどうか」「学生が海外に何人留学したか」などは、どの「ランキング」においても必ず指標に含まれているのでしょう、多くの大学は、英語による授業を無理やり増やしたり、勉学のために日本から一歩でも外に出た学生の数を丹念に数え上げて「留学」の実績に加えたり、というような涙ぐましい努力を積み重ねています。

とはいえ、日本の大学には、日本の社会において期待されてきた伝統的な役割というものがあります。そして、それぞれの大学は、この期待と対決しながら、みずからの姿を作り上げてきました。しかし、現在、わが国の大学は、その境域である日本社会のエコシステムとの関係を無視し、ランキングにおける順位を上げることへと駆り立てられているように見えます。この現状は、社会にとっても大学にとっても厄災であると私は考えます。

*1:英語圏で通用している大学ランキングはいずれも、民間企業が独自の基準で作成しているものにすぎません。

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