※この文章は、「何がどうなると大学は「グローバル化」したことになるのか(その1)」および「何がどうなると大学は「グローバル化」したことになるのか(その2)」の続きです。
もちろん、文部科学省と各大学の名誉のために言っておくなら、日本の大学が「英語圏の大学みたいになる」ことにまったく何のメリットもないわけではありません。海外の大学とのあいだの移動の障壁が少なくなることにより、勉学について恩恵を受ける学生がどの大学にも必ずいるからです。(もちろん、私が勤務する明治大学にもいます。)
ただ、「グローバル化」を単なる「鹿鳴館化」に終わらせることなく、本格的な「脱日本化」1 を実現する見込みが少しでもあるのは、わが国では東京大学だけでしょう。それでも、東京大学においてすら、「グローバル化」の当事者が多数を占めることはないはずです。まして、他の大学にとっては、「グローバル化」には「装い」以上の意味はないと考えるのが自然です。
そもそも、世界のどこを捜しても、完全に国際的なグローバルな大学などありません。大学というのは、中世のヨーロッパにおいて学生の組合として誕生して以来、現在まで、1000年近くにわたり、その姿を徹底的にローカライズすることにより、それぞれの社会に根を下ろしてきました。日本の大学、イランの大学、モロッコの大学、イタリアの大学・・・・・・これらは、それぞれの社会的環境との相互作用の中で固有の姿を身につけてきたのです。
20世紀末以降、ヨーロッパを中心とする各国において、高等教育のシステムを共通化する試みが進行しています。一般に「ボローニャ・プロセス」と呼ばれるこの改革は、しかし、基本的に英語圏の大学のシステムを標準とするものであり、非英語圏の諸国、特にドイツ語圏では否定的に受け止められる場合が少なくありません。
当然、英語圏の大学が完全に国際的なグローバルな大学であるはずはありません。たとえば、オクスフォード大学やケンブリッジ大学は、特殊イギリス的な大学にすぎません。同じように、ハーバード大学やコロンビア大学は、アメリカの文化的、社会的な風土との相互作用において形作られてきたまったくローカルな大学であり、そのシステムは、「グローバル化」を目指す世界のすべての大学のモデルになるようなものではありません。
むしろ、現在のアメリカの大学は、その制度や慣習について、多くの病を抱えています。教員の人事、大学の経営、大学関係の法律、入学者選抜の方式、授業料、カリキュラムの編成など、日本の大学の方が格段にすぐれている点、むしろ、アメリカの大学を反面教師とすべき点は少なくないのです。
わが国の社会は、伝統的に「他の国の『いいとこどり』」を得意としてきました。ことによると、わが国の大学の現状は、必ずしも好ましいものではないのかも知れません。しかし、優先されるべきであるのは、外国の事例を参考にしながら、しかし、日本の社会と文化にふさわしい大学の姿を模索することであり、「いいとこどり」の伝統を放棄して大学を丸ごと「英語圏の大学みたいなもの」にする「鹿鳴館化」ではないはずです。
大学の「鹿鳴館化」の進行を押しとどめないかぎり、日本の大学の未来は暗いように私には思われます。
- もちろん、これが「植民地化」を免れる保証はどこにもありません。 [↩]