英語は、日本語とのあいだの「言語間距離」がもっとも大きな言語の1つであると一般に考えられています。そして、日本語とのあいだの言語間距離が大きい言語ほど日本人にとって習得が困難であるという関係が認められるなら、日本人にとり習得のもっとも困難な言語は英語であることになるでしょう。
もちろん、厳密に考えるなら、習得が困難であるのはどの外国語でも同じです。それ自体として「習得がラクな外国語」「与しやすい言語」というものはありません。少なくとも、日本語を母語とする者には、そのような言語はないと考えるのが無難です*1。
ところで、遅くとも明治時代の半ば以降、日本人は、外国語の学習を特別なものとして真面目に受け止めてきました。そして、世界の大言語——日本語もその1つですが——とのあいだの言語間距離が相当に大きいことは、このような態度が形作られる原因の1つであったように思われます。
また、「外国語が習得できた」と表現することができる状態に求める水準が不当に高い——この水準に到達するために努力するかどうかは、また別の問題です——というのも、日本人の外国語学習に伝統的に認められる特徴です*2。すなわち、日本では、「何らかの外国語をマスターした」「バイリンガルである」とは、その外国語を「母語話者と同じように使いこなすことができる」こと、換言すれば、当の外国語の運用能力が母語である日本語の運用能力と同等であることを意味すると一般に考えられています。
とはいえ、これもまた当然のことながら、すべての外国語の学習は、ごく基本的なレベルを超える部分については、「どのような場面において、どのようなレベルで使えるようになりたいか」という観点から逆算して計画されるべきものであり、いかなる限定もともなわない「外国語力」などというものはフィクションにすぎません。たとえば、シェイクスピアの英語を自由に読む者が量子力学について書かれた専門的な論文を理解することができるとはかぎりません。文法的に正しい英語を用いて国際政治について語ることができても、アメリカの飲食店でアルバイトするのに必要な英語は何も知らない、ということもありうるでしょう。
もちろん、平均的な日本人の平均的な外国語学習を支配するこれらの勘違いは、外国語学習ばかりではなく、言語一般に対する態度に好ましくない影響を与えてきたように思われます。
なお、英語以外の外国語についてもまた、事情は基本的に同じですが、「外国語ができる」という事態をめぐるこのような勘違い——「外国語ができる=ネイティブ並み」と「外国語ができる=その言語のあらゆる使用に通じている」——は、日本人の英語学習の経験から、英語をモデルに形作られたものであるに違いありません。
*1:もちろん、実際には、学習環境、他の言語の学習歴などに応じて言語の習得の難易度は変化します。
*2:残念ながら、これは「外国語」学習の特徴であり、「言語」学習の特徴ではありません。実際、日本人は、日本人の母語としての日本語を実に粗雑に扱ってきました。