Home 言葉の問題 「あなたは何ゴミ?」について(全4回の2)

「あなたは何ゴミ?」について(全4回の2)

by 清水真木

※この文章は、「『あなたは何ゴミ?』について(全4回の1)」の続きです。

ただ、このような勘違いのおかげで、少なくとも英語に代表される西洋各国語の学習において、日本人は、ある重要な洞察を獲得しました。

すなわち、日本語とはあまりにも異なる言語——つまり英語——の学習経験にもとづいて外国語観を作り上げてきたおかげで、少なくとも明治以降の日本人は、日本語と外国語のあいだには、発音や単語や表面的なシンタクスの違いばかりではなく、それ以前に、文法や言葉遣いを支えるものの見方の差異が横たわっていること、したがって、日本語の文を外国語に訳すとは——逆の場合も同じですが——単語を1つひとつ置き換えることではなく、もとの日本語の文が表現する「内容」を外国語で表現し直す作業でなければならないこと、このような理解に到達したのです*1

そして、この洞察を前提とするかぎり、同じ1つのことを言い表す日本語の文と外国語の文あいだには、次のような関係が認められることになります。つまり、日本語の文を外国語にあらため、外国語の文を日本語にあらためることが可能となるためには、何よりもまず、当の文が本当に伝えたい〈事柄〉を適切に把握しなければならないこと、そして、日本語の文に対応する外国語の文は、もとの日本語の文が伝えようとしていた〈事柄〉の明確な表現でなければならない・・・・・・、少なくとも明治以降、日本における外国語学習には、私たち1人ひとりに対し、日本語や外国語が表現する〈事柄〉の正しい把握を強いる作業という側面が認められてきたのです*2

私自身は、ながいあいだ、フランス語、英語、ドイツ語、ラテン語、ギリシア語など、ヨーロッパ系の言語ばかりを勉強してきました。したがって、私は、これまで述べてきたような外国語観を当然のこととして引き受けてきました。すなわち、外国語を用いるとは、日本語とは根本的に異なる仕方で世界を分節することであると考えてきたのです。

日本人が、日本語を用いて、日本人に向かって何かを表現するとき、表現する当人が表現したい〈事柄〉をつねに明確に理解しているとはかぎりません。しかし、〈事柄〉をめぐる理解が曖昧でも、この曖昧な理解は曖昧に表現され、そして、曖昧なまま受け取られることが可能です。相手が日本人なら、ものの見方の枠組を基本的に共有していますから、この曖昧さを曖昧なまま受け止めることができるからです。

これに対し、前に述べたような理解に従うなら、外国語の文からは——その外国語が前提とするものの見方に由来する曖昧さはあるとしても——少なくとも日本語に特有の曖昧さはすべて消去され、新しい観点からすべてが明瞭に表現されているていなければなりません。そして、日本人のあいだでなら語らなくても伝わる——あるいは、曖昧なまま残しておくことが許される——表現の影の部分を、強いてすべて明らかにすることこそ、日本語の文を外国語に置き換えることの第1の意義であるはずです。

*1:金文京『漢文と東アジア——訓読の文化圏』(岩波新書)には、サンスクリットの仏典の漢訳作業の手順が紹介されています。文法もものの見方も無視したこのような機械的な置き換え作業は、しかし、現代の私たちの目には、「翻訳」というよりも、「2つの言語を素材とするパズル」と映ります。

*2:自然な英語を自然な日本語に置き換えることが、言葉の機械的な置き換えに尽きるものではありえないことは、たとえば次の書物において雄弁に語られている点です。

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