Home 高等教育 何がどうなると大学は「グローバル化」したことになるのか(その2)

何がどうなると大学は「グローバル化」したことになるのか(その2)

by 清水真木

※この文章は、「何がどうなると大学は『グローバル化』したことになるのか(その1)」の続きです。

 そもそも、ある大学が「グローバル化」されているかどうかを評価するランキングの指標というのは、基本的にすべて、英語圏にあるごく少数の有名な大学を事実上のモデルとして、これらの大学がランキングの頂点に位置を占めるよう設定されているものです。

 ランキングの順位を上げることを望むのなら、わが国の大学には、英語圏の大学が決めたゲームの規則をそのまま受け容れる以外に選択肢はありません。もちろん、英語圏の大学に有利になるようにゲームの規則が恣意的に変更されることがあるとしても、これに異議申し立てする資格は日本にはありません*1

 日本の各大学と文部科学省が想定する「グローバル化」とは、事実上、「英語圏の大学みたいになること」を意味します。換言すれば、大学の「グローバル化」とは、英語圏のごく少数の有名な大学のシステムが「世界標準」であることを自主的に認め、その上で、この「世界標準」にみずからを無理やり適合させる努力に他ならないのです。

 しかし、「グローバル化」を目指す努力がどれほど真剣なものであるとしても、日本の大学には、日本にあるかぎり、「英語圏の大学の劣化コピーらしきもの」以上の何ものかになることは不可能です。「グローバル化」が「英語圏の大学みたいになること」であるなら、わが国の大学がこの意味における完全な「グローバル化」をなしとげるためには、日本全体を「英語圏の国」にしてしまうか、あるいは、(グローバル企業が本国を出て行くのと同じように、)大学の方が日本を脱出して英語圏に移転し、「英語圏の大学」になってしまう以外に途はありません。

 「グローバル化」の実質が「英語圏の大学みたいになること」であるなら、「グローバル化」の試みは、日本の高等教育とその社会的な環境に傷を与えるばかりではありません。「ランキングにおける順位を上げる」ことを標的として各大学で行われる改革なるものは、場合によっては滑稽ですらあります。1883(明治16)年に完成した「鹿鳴館」に代表される「欧化政策」が滑稽であったのと同じ意味において、大学の「グローバル化」は滑稽なのです。

 ランキングにおける順位を上げること、しかも、いつ規則が勝手に変更されるかわからないゲームにおいて順位を上げることを標的として、「英語圏の大学」風の「装い」をこらす——しかも、これが「装い」にすぎないことが誰にとっても明らかである——試みは、一種の「欧化政策」であり、大学の「グローバル化」というよりも、むしろ、大学の「鹿鳴館化」と表現する方が適切であるように思われます。実際、大多数の大学生には、そして、教員の相当部分には、「グローバル化」は完全に他人事だからです。

*1:実際、ランキングの順位を決めるための指標は随時置き換えられ、日本の各大学は、そのたびに順位を落とします。

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