誰かが「ミルフィーユ」という言葉を口にしているのを耳にすると、身体が不快な感じに襲われます。お菓子の名前が問題であるなら、それは、決して「ミルフィーユ」であってはならないからです。(フランス語の正確な発音は、「ミルフーユ」と「ミルフイユ」の中間あたりです。)私自身は、自分の言葉として「ミルフィーユ」と発音したことはありません。また、決して「ミルフィーユ」とは発音しないことにしています。
1980年代までは、わが国でも、mille feuilleは、「ミルフーユ」という正しい発音とともに少数の喫茶店のメニューに載っていたはずです。「ミルフィーユ」という誤った表記が使われるようになったのは、私の記憶に間違いがなければ、1990年代後半のことです。
とはいえ、「『ミルフィーユ』と言うな、『ミルフーユ』あるいは『ミルフイユ』と言え」という私の要求には、次のような反論があるかも知れません。すなわち、「もとの言語において与えられていたのとは異なる発音とともに日本語に取り込まれ、そのまま流通している外来語などいくらでもあるではないか、たとえば餃子は『ギョーザ』ではなくjiǎoziと発音すべきだというのか・・・・・・。」
しかし、私は、餃子は「ギョーザ」でかまわないと考えています。「jiǎoziは中国の料理であり、餃子は日本の料理である」などというエセ文化論的な説明を取り上げるつもりはありません。
餃子は「ギョーザ」でかまわないと私が考えるのは、現代の日本語の音韻体系の範囲では、jiǎoziを発音するのが不可能だからであり、「なまり」が生まれるのは避けられないからです。(jiǎoziに対応する近似的なカタカナを1通りに決めることもできないでしょう。)そもそも、漢字の「音読み」というのはほぼすべて——そして、見方によっては「訓読み」の一部も——「日本語なまりの古代中国語」です。
これに対し、現代の日本人にとり、mille feuilleを「ミルフーユ」または「ミルフイユ」と発音するのに困難はないはずです。「饺子」を「ギョーザ」と発音しても現代の平均的な中国人には通じないはずですが、「ミルフーユ」や「ミルフイユ」なら、平均的なフランス人に伝わります。むしろ、「ミルフィーユ」という誤った発音は、フランス人の耳に”mille filles”(つまり「1000人の少女」)と聞こえてしまうはずです。日本に観光旅行に来たあるフランス人が、喫茶店のメニューに「ミルフィーユ」を見つけて注文し、ワクワクして待っていたら「ミルフイユ」が出てきてガッカリした、という、本当か嘘かわからない話が伝わっているほどです。
たしかに、正しく発音するのにいちいち苦労しなければならないような外来語というのは、外来語の「趣旨」(?)に反するでしょう。けれども、もとの言葉——この場合はフランス語の名詞”mille feuille”——との関係を見失わないためにも、「ミルフィーユ」のような単なるエラーは、できるかぎり排除し、正しい発音を心がけた方がよいと私は考えています。「ミルフィーユ」という言葉を目にしたり耳にしたりするたびに、私は苦痛を覚えます。