私は、「対応をとる」という文字列を自分の言葉として書き記したことは今まで一度もありません。また、自分自身のセリフとして「対応をとる」と言ったこともありません。私にとり、「対応をとる」は実質的に誤った表現だからです。
「対応をとる」は、日本語の文法において許容されている表現です。しかし、私の言語感覚に従うかぎり、これが文法的に正しいとは、〈何らかの名詞+「を」+「とる」〉という排列が文法的に正しいという以上の何ものも意味しません。
「対応をとる」などという表現を抵抗なく平然と使うことができるような人間は、日本語の感覚が回復不可能なほど鈍磨しているか、知性が堕落して精密に思考する意志と能力を喪失しているかのいずれかである……、私は、このような偏見をひそかに抱きながら、毎日を過ごしています。
私が「対応をとる」と言わない理由はただ1つ、それは、対応が「とる」ものではなく「する」ものであるということです。「対応」という名詞に「対応する」動詞は、「社会の変化に対応する」のように、「対応する」というサ変動詞でなければなりません。
「とる」と結びつけてはならないという点では、「対策」も事情は同じです。対策は「立てる」ものであり「講じる」ものであり、決して「とる」ものではないからです。私の言語感覚は、「対策をとる」を日本語とは認めません。
サ変動詞として使われるべき文字列の中間に「を」を割り込ませると、表現が間延びしただらけたものになるように感じられます。「を」は、サ変動詞の表現を分割し、これが「名詞」+「する」という2つの部分からなることに注意を促す以外に何の役割も担っていないからです。
「洗濯をする」「運転をする」「旅行をする」などに含まれる「を」は、無用な助詞であるばかりではありません。「を」を挿入することにより、「洗濯」「運転」「旅行」が「する」の直接目的語になってしまいます。つまり、他の目的語と組み合わせることができなくなるのです。言い換えるなら、「名詞」と「する」のあいだに「を」を挿入することにより、「・・・・・・をする」が広がりを持たない孤立した表現になってしまうことになります。
「対応をとる」の場合、「対応する」という表現の「対応」と「する」のあいだに「を」を挿入すると、「対応をする」となり、坐りが悪くなります*1。そこで、「する」の代わりに「とる」が用いられるようになったのではないか、「対応をとる」という神経を逆撫でするような表現の由来について、私はこのような想像「を」しています。
しかし、「を」以上に違和感を与えるのは、動詞「とる」の使い方です。私は、「とる」をこのように無造作に使うことに抵抗感を覚えます。なぜなら、「とる」は、何を直接目的語とするかによりその意味を変える多義的な動詞だからです。たとえば、「年をとる」「テーブルの上のハンマーをとる」「彼女の手をとる」「イニシアチブをとる」などの表現に含まれる「とる」の意味はすべて異なります。
たしかに、「とる」は多種多様な動作を一語で表現することが可能な便利な動詞である――英語のtakeと同じです――と言えないことはありません。しかし、「とる」は、それぞれの動作をもっとも適切に言い表すはずの動詞の代用品にすぎません。
いくら便利だからと言って、「する」や「とる」を漫然と使い続けているうちに、「とる」が代理していたはずの動詞を使うことができなくなるとともに、「とる」が代用品であるという事実すら忘れられてしまうかも知れません。便利な代用品を濫用されているうちに、1つひとつの事実を思い浮かべながら適切な――事柄を正確に言い当てるとともに、その事柄を他から明瞭に区別するような――言葉を選び出す能力が毀損されてしまうようになるのです。
それどころか、ことによると、「対応をとる」という表現を無造作に使う者たちは、「Xをとる」という形式をまず心に浮かべ、次に、「X」に代入可能な名詞を探す――あるいは無理やり作る――という転倒した作業を試みているのかも知れません。しかし、もし順序がこのとおりであるなら、それは、言語と言語能力の退化の証以外の何ものでもないように,私には思われます。
*1:しかし、もちろん、「対応をする」という表現がまったく使われないわけではありません。