Home 高等教育 大教室での講義からもう2年間も遠ざかっていることに気づく

大教室での講義からもう2年間も遠ざかっていることに気づく

by 清水真木

 今日(1月12日)で、私の今年度の教室での授業が終わりました。2020年度は、授業のために教室に足を一度も踏み入れませんでした。2021年度には状況が少し改善し、演習科目は教室で行うようになりましたが、大人数の講義は、相変わらずオンラインのままでした。今年の4月以降のことはわかりませんが、今年度と同じ体制が続くなら、教室で講義が行われない期間が3年間も続くことになります。

 ところで、大学の授業について現在の日本において支配的な勘違いの1つに、次のようなものがあります。すなわち、大学の授業には、〈学生のあいだ、あるいは、学生と教師のあいだの双方向的なやりとりによって成り立つ授業〉と〈情報を一方的に伝達することを目的とする授業〉の2種類がある、という勘違いです。大学と無関係の人々がこの勘違いに囚われているばかりではなく、文部科学省、そして、驚くべきことに、大学関係者のあいだですら、その一部がこの偽の区別を受け容れています。

 もちろん、大学の授業には、上のような区別など認められません。人数や使用する教室とは関係なく、すべての授業は、授業であるかぎりにおいて、つねに双方向的だからです。

 実際、あらかじめ準備しておいた内容を準備しておいたとおりに教室で話そうと思っても、そのようなことは不可能です。すぐに行き詰まってしまいます。このことは、1学期間、大教室で実際に授業してみれば誰でもすぐにわかります。

 教室に坐っている学生は、教師に対し、たえず無言で何らかの反応を示します。そして、教師の方は、学生の反応/無反応を見て、「今の話は伝わらなかったな」「今の説明はうまく通じたようだな」「このテーマにはまったく食いつかないな」などを察知し、その手応えをもとに、その場で話を省略したり、予定になかった話を追加したり、重要と思われることを言葉を換えて説明したり、実例を新たに加えたりするはずです*1。そして、授業の内容の大枠は維持されるとしても、その細部は、学生の反応を見ながら、その場で柔軟に組み替えられて行くはずです。

 大人数の講義では、教師は、学生の反応に関係なく、決められたことを決められたとおりに話せばよいだけであると勘違いしている人々は、実際に講義した経験がないばかりではなく、おそらく、講義を真面目に聴いた経験もないに違いありません。

 本来の意味におけるコミュニケーションとは、情報の交換、あるいは、情報の一方的な伝達ではなく、当事者のあいだで協力しながら話題を作る作業です。たしかに、講義が行われる大教室では、学生は、実際に声を出して授業に参加してはいないかも知れません。それでも、ここでは、紛れもなく教師と学生のあいだの対話がその都度あらかじめ成立しているのであり、これによって、授業の内容がその場で形作られて行くのです。この意味において、大教室での講義は、少人数の授業とまったく同じ資格において、正真正銘の双方向的なコミュニケーションと見なされねばなりません。

 オンラインの授業、特に、オンデマンド型の授業では、この意味におけるコミュニケーションを成立させるためのコストが——教師にとっても学生にとっても——きわめて高く、授業が授業として成立しているという実感を持つことは——これもまた教師にとっても学生にとっても——容易ではありません。この意味において、私は、大教室を用いた対面での講義が早期に再開されることを望んでいます。

*1:だから、パワーポイントによって作成されたスライドは、講義には向かないと私は考えています。1回かぎりのプレゼンに向いているかどうかも怪しいように思われます。

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