以前、次のような文章を書きました。
以下は、これに関連する話です。
私は、電車に乗るために、駅のホームに立って電車を待つことがあります。というよりも、〈電車には必ず発車直前に駆け込むことにしている〉という風変わりな流儀をかたくなに守る少数の危険な人々は別として、誰にとっても、電車というのは、ホームで待って乗るものであるに違いありません。
ところで、駅の構内を移動するたびに、そして、ホームで電車を待つたびに、私を微妙に苛立たせるものがあります。それは、場所と状況に応じて細かく流される案内の音声です。
ホームで電車を待つすべての人は、電車が駅に近づいてくるとき、次のような案内の音声を耳にするはずです。それは、たとえば、「危ないですから、黄色い線までお下がり下さい」というようなものです。また、駅でエスカレーターに乗ると、「大変危険ですので、駆け上がったり、駆け下りたりしないでください」という意味の警告が耳に入ることがあります。
日本の駅や公共施設における音声案内が過剰であることは、20世紀の末から、公共の言論空間において繰り返し話題となってきました。私が記憶するかぎりでは、この問題を主題的に取り上げた最初の書物は、中島義道氏の『うるさい日本の私―「音漬け社会」との果てしなき戦い』(洋泉社、1996年)であり、これ以来、この事態は、さまざまな観点から分析が試みられてきました。たしかに、これは、それ自体として無視することができない問題であるに違いありません。
しかし、私が気になるのはこの点ではありません。むしろ、私は、公共の空間における音声案内は基本的に好ましいものであると考えています。
私の神経を逆撫でするのは、「危ないですから、黄色い線までお下がり下さい」という文に含まれる接続助詞「から」です。「大変危険ですので、駆け上がったり、駆け下りたりしないでください」という音声を耳にするときには、当然、接続助詞「ので」に気分を害します。理由は単純です。上記の音声案内に関するかぎり、「から」も「ので」も使う必要がないからです。
「から」と「ので」はいずれも、順接の接続助詞であり、それぞれの前にある節があとの節の理由を示すと普通には考えられています。たしかに、私たちは、ホームの端に立つことが「危ない」という理由により「黄色い線まで下がる」よう命令され、エスカレーターを徒歩で上下すると「大変危険」であるという理由により「駆け上がったり、駆け下りたりしない」よう命令されます。
けれども、少し冷静に考えるなら、「危ないですから」と「大変危険ですので」は不要であることがわかります。そのようなことは、命令を受け取った時点で、誰にとっても自明のはずだからです。
駅の音声案内が私を苛立たせるのは、これが冗漫だからです。多くの人々が音声案内自体を不要と見なす気持ちがわからないことはありません1 。
しかし、たとえ音声案内があるとしても、「黄色い線まで下がる」のが「危険」だからであることを説明し、エスカレーターを「駆け上がったり、駆け下りたり」してはならないのが、「危険」だからであることを説明する必要はありません。反対に、特定のふるまいを禁じる理由の説明を必要とする利用者がいるなら、このような利用者には、「黄色い線まで下がる」という命令を正確に理解することすら不可能であるはずです。
接続助詞の「ので」と「から」の用法には、いわば(カント的な意味での)「分析的」な用法と「総合的」な用法が区別されるように思われます。大抵の場合、私たちがこれらの接続助詞に期待するのは「総合的」な用法、つまり、接続助詞のあとに続く節を眺めているだけではわからない情報を理由として提示する用法の方です。しかし、「危ないですから、黄色い線までお下がり下さい」「大変危険ですので、駆け上がったり、駆け下りたりしないでください」に含まれる「から」と「ので」の用法は分析的です。これらの文の場合、接続助詞「から」「ので」に先立つ節は、これに続く節に対し何の情報も加えないのです。現代の日本の平均的な大人にとり、「危ないですから」や「大変危険ですので」の部分は単純なノイズです。
私は、音声による案内は、それ自体としてはあってもかまわないと思います。ただ、現在の音声案内は、あまりにも冗漫です。音声案内が余計なものとして受けとられることの大きな原因は、親切なつもりで流されている音声の相当部分が情報として無駄であることにあるに違いありません。
- 私自身は、すべての音声案内が無意味であるとは思いません。というのも、こまめな音声案内が絶対に必要である場合がないわけではないからです。(もちろん、勝手がわかっている場所、あるいは、「見ればわかる」状況なら音声はなくてもかまいません。)たとえば、海外を旅行し、観光客の利用が必ずしも多くはない路線バスに乗ると、車内に行き先表示がなく、次の停留所の表示も路線図もないことが少なくありません。このようなときには、目当ての場所で確実に降りられるよう、次の停留所のアナウンスに必死に耳を傾けます。このような状況のもとでは、音声案内は必須です。 [↩]