Home 高等教育 束縛された精神について

束縛された精神について

by 清水真木

 昨日、次の文章を書きました。

 以下は、その補足です。

 わが国では、形式的には、すべての大学に対し「学問の自由」なるものが法的に認められています。けれども、この権利を切実に必要とする研究分野は、実際には決して多くはありません。大学の「売りもの」になる可能性がある研究分野の多くは、「学問の自由」との関係では人畜無害だからです。(いや、現実には、話は逆であり、人畜無害な研究分野だからこそ人気が集まると考えるのが自然であるかも知れません。)

 さらに、大学の外部の社会、特に民間企業を中心とするクラスターは全体として、このタイプの自由に敵対的な態度をとるのが普通です。エマソンの『自己信頼』における指摘を俟つまでもなく、社会が私たちに期待するのは、その従順な部品として機能することであり、「本当の私」や「精神の自由」など、集団の安定にとっては邪魔なだけだからです。

 何年か前、大学の授業において、上記のようなエマソンの見解を簡単に紹介し、これに加え、「自分の内面から発せられる声だけがなすべきことを教えてくれる」というエマソンの主張に言及したことがあります。

 さらに、私は、このとき、エマソンの言葉を枕に、「現在の社会の常識や規範に盲従しているだけでは、自分のなすべきことを実現し、幸福になることができないばかりではなく、そもそも、自分が何をなすべきであるかすらわからず、自分を見失ったまま人生を終えることになる、だから『自己本位』(←夏目漱石の言葉です)で生活を組織することを決して諦めてはいけない」という意味のことを話しました。たとえ大学の1年生や2年生であっても、いや、つらい社会経験をまだ持たない1年生や2年生であるなら、むしろ、この程度のことは、少なくとも形式的に理解できないはずがないと私は予想しました。

 しかし、授業が終わったあと、私の予想が甘いことがわかりました。というのも、2年生の学生が提出したリアクション・ペーパーに、おおよそ次のようなことが記されていたからです。

社会が私たちに順応だけを期待し、私の個性も、オリジナリティも、本当の姿も、精神の自由も求めていない、むしろ、このようなものに対し社会が敵対的であるというエマソンの指摘が正しいのなら、自分の内面の声に耳を傾けたり、「自己本位」の立場に身を置いたり、幸福になろうとして自分が本当になすべきことを追求したりする努力は完全な無意味であること、また、社会に対するこのような批判的な態度を教えるものであるかぎりにおいて、哲学など有害であることが今日の話を聴いてよくわかった。なぜなら、むしろ、社会は、私たちが自分らしくあることなど求めていないからであり、私たちにとって何よりも大切なことは、社会に順応することで社会に受け容れてもらい、社会に認めてもらうことだからである。

 私は、この「リアクション」に大いに驚き、しばらくのあいだ、声が出ませんでした*1。しかし、現代の日本では、年齢、学力、環境などには関係なく、上のような考え方が支配的なのでしょう。そして、このような考え方が社会において支配的であるかぎり、形式的な「学問の自由」が法的に認められているとしても、社会にとり、そして、社会の圧力に抵抗する力を持たない大学にとり、この権利は無視してかまわないものとなるに違いありません。冒頭に述べたとおり、「学問の自由」が遂行の前提となるような「当たり障りのある」研究は、外部の社会において支持されることはなく、したがって、大学にとってはさしあたりどうでもよいものだからです。

*1:私は、幸福の手段として、就職活動を放棄する、革命を計画する、などの非現実的な選択肢を授業において示したわけではありません。

関連する投稿

コメントをお願いします。