Home 高等教育 「純粋動画」と精神衛生の問題(後篇)

「純粋動画」と精神衛生の問題(後篇)

by 清水真木

※この動画は、「『純粋動画』と精神衛生の問題(前篇)」および「『純粋動画』と精神衛生の問題(中篇)」の続きです。

そこで、もともと、私は、授業用の動画を作るときには、読み上げるための原稿を用意せず、自分で作ったパワーポイントを眺めながら、思いついたことを話していましたが、昨年度の秋学期から、パワーポイントの使用を少しずつ減らし、私の「おしゃべり」を届けるような動画を作るようにしました。

そして、今年度は、パワーポイントの使用すらやめ、私の「おしゃべり」をカメラで撮影し、これを適当な長さに分割して配信するスタイルに変えました。撮影は1回だけ、動画の切れ目にタイトルを入れ、言い間違いを削除する——削除せず、訂正の字幕を入れることもあります——以外、編集はしません*1。これは決して手抜きではなく、むしろ、メモを見ずに一気に話すのは、相当に大変な作業です。

私が作る動画からは、文字と図表がほぼすべて一掃されました。私の姿と声が内容のすべてです。学生は、「ナレーション付きスライドショー」のように早送りすることができません。ナレーション付きスライドショーの場合、1時間の長さの動画でも5分程度で再生してしまうことができないわけではありません。しかし、私が「おしゃべり」しているだけの1時間の動画は、すべて視聴するのに同じだけ、つまり1時間かかります。また、学生は、この間、必要に応じてメモをとらなければなりません。これもまた、「純粋動画」の作成にあたり、私が意図したことでもあります。(「すべて聴かなければならない」という理由で学生からは歓迎されない可能性がありますが。)

これが「純粋動画」の名に値するのかどうか、今はまだ判断を差し控えますが、授業用の動画の配信の1つのスタイルとなる可能性があると私は考えています。

ただ、カメラに向かって私がしゃべることには、精神衛生の面で若干の問題があります。私は、ノートパソコンのカメラを利用して撮影しているのですが、撮影しているあいだは基本的にずっと、画面に映る自分の姿を眺めていなければならないからです。さらに、動画の内容を確認し、最低限の体裁を整えるために、もう1度動画を見直すことが避けられません。鏡に映る自分自身に話しかけ、そして、鏡に映る自分自身に話しかけている自分の姿を眺めるのと同じことであり、ナルキッソスなら話は違うかも知れませんが、少なくとも私にとっては相当に苦痛です

今学期の冒頭、私は、正味1時間の動画を配信しました。この動画の作成に当たり、撮影と編集のために4時間以上も自分の姿を眺め続けました。これほど長時間「自分と向き合う」など、普通の生活ではありえないことであり、長期間にわたってこのようなタイプの動画を作り続けていると、精神に異常を来すのではないか、と少しだけ怖れています。

*1:相当な量の動画を作ってきたとはいえ、私は、動画の編集については完全な素人であり、専業のYouTuberと技術を競うつもりはありません。

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