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「純粋動画」と精神衛生の問題(中篇)

by 清水真木

※この文章は、「『純粋動画』と精神衛生の問題(前篇)」の続きです。

 「ナレーション付きスライドショー」は、パワーポイントで作成された紙芝居にすぎません。したがって、わざわざ.mp4の形式に変換して配信するよりも文書で配布する方が、(特に、教師の話がスライドの解説に終始する場合は、)教師にとっても学生にとっても効率的です。

権利上、ある表現の形式には、この形式にふさわしい内容が必ず対応します。「詩」という形式は、詩によって表現することがもっとも適切であるような内容にこそふさわしく、映画という表現手段は、「映画」に固有の内容を伝達するために使われなければなりません。

詩で表現しなくてもかまわないもの――たとえば歴史――に韻文の形式が与えられたり、映画ではなく演劇によって適切に表現されるような素材があえて映像化されたりすることは少なくありませんが、19世紀末以降、主に藝術の諸分野において、このような「他の形式でも表現できる内容」を排除し、その形式によってもっとも適切に表現されるものを追求する運動が始まります。「純粋詩」「純粋音楽」「純粋映画」などは、この運動の到達点を示す1つの理念であると言うことができます。

このような「純粋」を追求する運動は、それ自体としては決して新しいものではなく、むしろ、形相と質料の関係をめぐるアリストテレス的、あるいはトマス的な了解と確信を前提とするものであり、したがって、藝術と同じくらい古いと考えねばなりません。いや、藝術は、形式にふさわしい内容と内容にふさわしい形式の探求の試みであるとすら言うことができるかも知れません。

したがって、あえて動画を作るのなら、その内容は、「動画でなければ伝えられない」もの、動画という形式によって初めて適切に表現されるような何ものかでなければなりません。当然、このような動画は、「早送り」などされるはずがありません*1

私は、オンラインで授業しなければならなくなるのと同時に、動画という形式でしか伝えられないものを伝えるような動画を「純粋動画」と名づけ、その概念について考え始めました。今でもまだ考えています。

動画でしか伝えられないことがあるとするなら、それは、「文字化」あるいは「図表化」することが不可能なタイプの知識であるに違いありません。そして、このようなタイプの知識を伝える動画を、私たちはすでに知っています。DIYや料理のスキルを教えるためにYouTubeにアップロードされた膨大な動画がこれに当たります。このような動画が大量に作られているという事実は、動画が広い意味における「暗黙知」を伝えるのにふさわしい形式であることを教えるものです。

同じように、大学の授業、特に大人数の講義の場合、動画でしか伝えられないことが何かあるとするなら、それは、それぞれの話題を理解するための手がかりとなる微妙なニュアンスや漠然としたイメージのようなものでしょう。

何かを理解するとは、印刷物の文字面を再現したり、答えをどこからか探してきたりすること——このように勘違いしている学生は少なくありませんが——ではなく、その内容を自分の頭の中で立体的かつ具体的に再構成することを意味すします。

当の事柄をすでに具体的な形で理解した者の——つまり、私の授業については私の——「おしゃべり」に耳を傾けることは、理解のための有効な手段になりうると私は信じています。少なくとも、そこに何らかの「暗黙知」があることに学生が気づくきっかけとなるだけでも、私が「おしゃべり」する動画を視聴させることには重要な意義があるはずです。(後篇に続く)

*1:YouTubeの動画をpdfやウェブサイトに埋め込むとき、早送りができないよう設定することが可能ですが、ここで話題にしているのは、このような技術的な問題ではありません。

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