以前、ある女子大に何年か非常勤で行っていたことがあります。(なお、私は、これまでの人生の中で、3つの女子大で授業したことがあります。)先生筋に当たるある方が、週に1コマの授業の担当者として私を推薦してくださったのですが、大学での手続きに必要な書類についてその方と話していたとき、何かのついでに、私が推薦された理由が話題になりました。そして、そこで出てきたのが、「あなたの業績のことはよく知らないけれど(!)、とにかくセクハラしなさそうだから」という発言でした。
女子大の場合、教員の任用において「セクハラしなさそう」な人物――いや、正確に言えば、「セクハラしない」人物――を選ぶのがとても重要であることはよくわかります。そして、たしかに、私はセクハラしたことがありません。少なくとも、セクハラの加害者として誰かから訴えられたり公然と名指しされたりしたことは一度もありません。
だから、業績についてはよく知らないと言われたときには、少し「モヤッ」としましたが、「セクハラしなさそう」という指摘は事実であり、この点を認めていただいたことを、素直にありがたく感じました。
とはいえ、セクハラしないよう特に心がけていることはありません。(閉じた空間で女子学生と1対1になることは避ける、出席者が女子学生のみの授業を内部の様子が廊下から見えない教室で行うときには、やはりドアを常時開放する、などの最低限の目に見える対策は講じています。)
ところで、「セクハラしなさそう」という評価をいただいたとき、私の心に疑問が浮かびました。私が周囲に対し「セクハラしなさそう」と印象を与えるとするなら、反対に、周囲に「セクハラしそう」という印象を与える人物なるものがいるのか、ということです。
「セクハラしそう」な人物を他から区別する標識があるのかどうか、私にはわかりません。ただ、私の素朴な直観では、そのような人物は、生活のさまざまな領域において良識を逆撫でしているはずです。つまり、「道徳的に優秀だけれどもセクハラしそう」ということはありえないと考えるのが自然です。セクハラしそうな人物は、単なる「セクハラしそうな人」としてではなく、「道徳の点で現代の水準を満足せず、したがって、セクハラもしそうな人」として私たちの前に姿を現すのではないかと思います。完全にどうでもよい話ですが。