Home 高等教育 「単位が必要」という以外の理由なしに授業に出るのは自己虐待です

「単位が必要」という以外の理由なしに授業に出るのは自己虐待です

by 清水真木

 学部から大学院まで、私はたくさんの授業に出ました。その中で、授業の内容がその後の勉強や探求や人生の足がかりになるようにはまったく思われないが、とにかく単位が必要だからという理由で履修し、かつ、履修する意義が最後までわからなかった授業はただ1つ、必修科目の体育だけです。

 体育以外の授業はすべて、(1)その後の勉強の足がかりとなるという予想のもとで選んだものか、あるいは、(2)「どうせ時間と体力を使って出席するなら、今後の勉強につながるものを見つけるぞ」と覚悟して出席を決め、かつ、何らかの成果を実際に手に入れたものかのいずれかです。体育の授業に対しても、私は、まず(2)のような覚悟で臨み、自分に問って面白いと思えそうなものを必死で探したのですが、残念ながら、何も見つけられませんでした。私には、体育について、挫折感と苦痛以外の記憶はありません。

 このような事情のせいで、私には、「単位が必要だから」という以外に何の理由もなくたくさんの授業、特に選択科目を履修する人間の気持ちを理解することができません。これは、信じられないほどの苦痛を自分自身に与える行動であり、自己虐待ではないかとすら思うからです。少なくとも私はこのような苦痛には耐えられません。

 しかし、私の授業に実際に出席している学生の大半は、哲学に興味があるわけではなく、また、哲学の勉強に時間と体力を投資してみようという覚悟があるわけでもないように見えます。彼ら/彼女らの大半は、履修する科目を選ぶのに、「単位が必要」という以上の理由を求めてすらいないようなのです。(もちろん、このような行動は「哲学に失礼」ですし「教師に失礼」ですが、それ以前に、)学生が精神を蝕むはずのこのような苦痛に日々みずから進んで身をさらしていることに私は驚きを覚えます。

 彼ら/彼女らには、自分にとって何が本当に何が楽しく、何が苦痛であるのかわからなくなっているだけではなく、それ以前に、「自分自身にとっての意義」を選択や行動の目安にすることすらできず、(本人が表面的に何を求めるように見えても、)自分自身から疎外され同調圧力に操られているにすぎないのかも知れません。

 もちろん、苦痛を感じていてもいなくても、(授業の「つまらなさ」の原因が教師に一方的に押しつけられないかぎりにおいて、)それは学生の問題であり、私の問題ではないのですが。

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