哲学の古典的なテクストを授業で講読していると、数年に1度、「なぜ古典を優先的に読まなければならないのか」と学生から問われることがあります。
普段から、私は学生に対し「人間がおサルと違って直接の体験の範囲を超えて経験を拡張することができるのは読書のおかげである」こと、「読書以上に経験を効率的に拡張する手段はない」ことを繰り返し強調しています。したがって、学生の方も、実際に読書するかどうかはともかく、「なぜ古典を優先的に読まなければならないのか」と私に尋ねるときには、読書一般の意義に関するこのような理解を私とあらかじめ共有しています。つまり、学生は、「なぜ古典を優先的に読まなければならないのか」と私に尋ねることで、「古典」に属する書物が他の書物よりも優先されるべき理由を尋ねているのであり、「なぜYouTubeではダメなのか」とか「SNSでたくさんの人たちとつながっていればそれで十分ではないか」などの愚問を投げかけているのではありません。
さて、「なぜ古典を優先的に読まなければならないのか」という問いに対する答えは、さまざまな観点から可能です。私自身、ある著書でこれに答えています。
しかし、学生から質問があったときには、「そもそも古典とは何か」のような複雑な問題についてこまごまと話すことは避け、できるかぎり簡潔に答えるようにしています。学生は、詳しい説明など求めていないはずだからです。
私はまず、「古典を優先的に読まない場合、それなら、あなたは、具体的にどのような書物が古典に代わりうると思いますか?」と学生に尋ね、具体的な書名を挙げさせます。すると、大抵の場合、学生は、ライトノベル、ビジネス書、マンガなどのタイトルを示します。
これを受けて、私の方から次のように説明します。
現在流通している本の99.9%は10年後には読まれていないでしょう。だから、今タイトルを挙げてもらった本も、10年度には、ほぼ間違いなく、その存在すら忘れられています。これに対し、「古典」と呼ばれているものは、100年前にはすでに読まれていたものであり、したがって、100年後にもまだ読まれている可能性が高いと言うことができます。すぐに消えてなくなるマンガは、たとえば同じ会社の上司や部下とのあいだの共通の話題にすらなりえないかも知れませんが、古典的なテクストを読んでいれば、すぐ上や下の世代だけではなく、時代や地域を超えて――プラトンを読んでいれば、2000年前のローマ人とすら――話題を共有することができます。古典が優先的に読まれるべきであるのは、これが(過去と未来を含め)遠い他人から届く声を聴き取るための基礎だからです。本来の「コミュニケーション能力」とは、背景を異にする人々の声を聴いて理解する能力であり、古典を読むというのは、コミュニケーションのコストを抑えるための戦略なのです。
私は、このように説明することにしています。
もちろん、この説明を理解するためには、自分の視界に姿を現す他人の価値を「連絡の取りやすさ」や「年齢の近さ」や「生活環境の重なり」にもとづいて評価しないだけの知性と分別が必要ではありますが……。