※この文章は、「学生を呼ぶときに使用する呼称について(前篇)」の続きです。
それでも、性別による呼称の区別をしないことにより、学生との距離はいくらか大きくなったように思われます1 。私は、もともと、学生とのあいだに十分な距離を確保することを好む方です。したがって、呼称の統一は、それ自体としては好都合でした。ただ、性別にもとづく呼称の使い分けをやめても、学生に対する態度を個別に調整する努力が不要になったわけではなく、むしろ、学生との距離が遠くなった分、学生へのアプローチに「遠隔操作」のようなもどかしさをときどき覚えるようになったことは事実です。
性別にもとづく呼称の区別の廃止は、高等学校までの下級学校では決して悪いことではないばかりではなく、むしろ、必要な措置ですらあると私は考えています。ただ、大学というのは、知的な自由が全面的に認められているはずの空間です。つまり、大学の内部では、いかなるルールも、「異論を差し挟むことを許さない絶対的なもの」となることは許されません。当然、「性別にもとづいて呼称の区別を廃止すること」もまた、自由な吟味と開かれた討論の対象となるべきであり、「便宜的で暫定的なルール」以上の位置を与えられてはならないものなのです。
上の記事において、学生は、教師が学生に対し「女性」にふさわしい呼称を用いなかったことに不満を抱いたようです。しかし、”Yes, sir”という教師からの応答が気に入らなかったのなら、学生は、大学当局に訴える前に、まず当の教師と徹底的に議論し、教師を説得するよう努力すべきでしょう2 。すべてが自由な吟味へと開かれていること、言い換えるなら、社会において真理や良識として通用していることを問いなおす自由は、大学を外部の空間から区別する重要な標識です。大学に身を置くとは、すべてについて「異論」がありうるという認識を引き受けることを意味するのです(が、残念ながら、アメリカの大学で教師を脅した学生には、この点がわかっていなかったようです)。
- 幸いなことに、明治大学の場合、教職員の方が学生に対する呼称を統一しても、学生の方に「お客様扱いされている」という勘違いが生まれることはなかったようです。 [↩]
- YouTubeにアップロードされたインタビューで、教師は、次のように証言しています。「私が彼の要求に難色を示すと、その学生は好戦的になり、私に近づき、私の周りをぐるぐると回って私を威嚇し始めたのです。彼は私に悪態をつき、もし私が彼の要求に即座に応じなければ私をクビにすると約束しました。数日のうちに、私は彼の要求に応じることを申し出ました。彼の好きな名前を使い、『サー』『マアム』などの性別を特定する呼称をやめてもよいということです。」(以下の動画の1分20秒すぎから。)
大学に学問の自由が保証されている以上、学生が大学当局に訴えることができるのは、教師が議論を拒否したときだけですが、この動画の内容が正しいとするなら、議論を拒否したのはむしろ学生の方であり、学生は、教師が学生の要求を受け入れないのには相応の合理的な理由があるかも知れないと推測して教師の立場を尊重することもなく、ただ教師を威嚇しただけであったことになります。 [↩]