Home 高等教育 あらためて「大学における学問の自由」について

あらためて「大学における学問の自由」について

by 清水真木

 昨日、次のような文章を書きました。

 以下は、これに関連する話です。

 上記の文章において、私が示したのは、次の4点です。

 すなわち、「田舎から出てきた右も左も分からない若い女の子を無垢(むく)・生娘なうちに牛丼中毒にする」という発言があったことについて、

  1. 「民間企業の重役なんてそんなもの」と捉えるべきであること、この発言に対する非難も、この発言の擁護も、私が知る範囲ではすべて見当違いであること、ただ、
  2. 末端消費者に「依存」という形のダメージを与えることで利益を挙げることが企業の戦略であるという事実を世間に広く知らしめた点においてこの発言には大きな効果があったと考えるべきこと、したがって、
  3. このような企業の戦略から身を守るため、消費者教育を徹底させるべきであること、

私は、上の文章において、このようなことを書きました。

 ところで、今回の出来事について、私が気にしている点が1つあります。それは、「田舎から出てきた右も左も分からない若い女の子を無垢(むく)・生娘なうちに牛丼中毒にする」という発言について、発言した人物を雇用していた吉野家ばかりではなく、発言の場となった社会人講座を主催する早稲田大学もまた、受講者に対して謝罪した点です。

 まず、この問題について吉野家が謝罪することは、自然であるように思われます。何と言っても、問題の人物が早稲田大学の教壇に立つことになったのは、この人物が吉野家の重役だから——形式的には、早稲田大学が依頼した相手はあくまでも企業としての吉野家だから——であり、発言の最終的な責任は——発言した当人ではなく——「問題発言」するような人物を大学に送り込んだ吉野家にあるはずだからです。

 また、少なくとも今回の件に話題を限定するなら、大学が謝罪することは必ずしも不適切ではありません。ただ、それとともに、この謝罪は、吉野家が謝罪するのと同じ意味において当然であった、いや、それどころか、ハラスメントとして正面から問題化しないのはけしからんという意味の主張には私は同意しません。

 そもそも、以前に何回か述べたように、大学には「教授の自由」が憲法によって保証されています。大学の授業内での発言は、それが、広い意味において学問的なものであるかぎり、つねに道徳的に免責されなければなりません。大学は、世間において支配的な常識を教えるところではなく、授業の内容が常識に従属する必要もないからです。言い換えるなら、大学外の世界において支配的な常識や良識に合致しないことが語られるとしても、発言の意味を合理的に説明し、発言に対する批判が授業授業内部において認められているかぎりにおいて、それは「教授の自由」に属すると受け止められなければならないのです1

 今回、早稲田大学が謝罪したのは、これが正課の授業中の発言ではなく、社会人向けの講座における発言だったからでしょう。「田舎から出てきた右も左も分からない若い女の子を無垢(むく)・生娘なうちに牛丼中毒にする」というのが、正課の授業内での発言であったなら、早稲田大学は謝罪しなかったと思います。また、決して謝罪すべきではないと私は考えます。

 大学の授業には、これが学問的な文脈の内部において批判的に吟味される責務を引き受けるかぎりにおいて、全面的な自由が与えられるべきです。大学の授業の内容について、世間の常識に反するという理由で謝罪することは、大学に対して——大学のみに対して——憲法が認める「教授の自由」をみずから放棄することであり、大学の使命の自己否定に他ならないのです。

  1. 今から10年以上も前、ある授業において、ヘーゲルの「主人と奴隷」の弁証法をマルクスとの関係で話題にしたとき、出席していたある学生から、これが現代の日本の人権に関する常識からかけ離れた話であり、「ヘーゲルの考え方は時代錯誤」という註釈なしにこれを話題にするのは人権抑圧に加担しているのと同じである、という意味の抗議を受けたことがあります。また、ニーチェ——私の表向きの専門です——を話題にしたときも、女子学生が出席する授業内でニーチェの女性観に言及することはハラスメントに当たるという抗議を受けたこともあります。いずれについても、次のように応答しました。「ヘーゲル/ニーチェの見解に同意するかどうかは、あなたの自由です。批判があるならいくらでも聴きます。また、あなたがヘーゲル/ニーチェの見解を正確に理解し、しかし、最終的に同意しないとしても、成績評価に影響はありません。しかし、ともかくもヘーゲル/ニーチェが語ったことには現代との関係で一定の歴史的な意義があると一般に考えられており、それゆえ、誰にとっても知らずには済まされないものです。これが、私が授業でヘーゲルやニーチェを話題にする理由です。私の授業を履修しているかぎり、あなたにもまた、知らずに済ます権利はありません。」 []

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