Home 高等教育 「授業の恥はかき捨て」とすべきことについて(その1)

「授業の恥はかき捨て」とすべきことについて(その1)

by 清水真木

 数日前、次の文章をネットで見つけました。

 この文章の本論に当たる部分では、学界におけるジェンダーやマイノリティの位置に関しイギリスでこの数年のあいだに惹き起こされた厄介な論争が取り上げられていますが、私は、この問題には不案内であり、ここでは論評を控えます。

 私の注意を特に惹き、そして、ここで話題にしたいのは、本論ではなく、この文章の枕として冒頭で紹介されている伝統的な哲学科における議論の姿です。

 私が90年代に大学院生だった頃、最初はセント・アンドリュース大学で、その後リーズ大学で、哲学科は恐ろしい場所でした。セミナールームは、しばしば円形闘技場のような雰囲気でした。
 毎週、上級研究セミナーでは、同じような儀式が繰り広げられました。まず、他大学からの客員講演者が、退屈で元気のない聴衆を前に、1時間かけて自分の新しい理論の詳細を説明します。そして、かすかな拍手を浴びながら、この後どうなるかわからないと身構えるのです。
 それまでうつむいていた聴衆が、不気味に息を吹き返します。手が挙がります。異論が噴出します。混乱、論点先取、首尾一貫していないこと、矛盾が率直な形で告発され、これに対し、どもりがちなスピーカーはできるかぎり自己弁護します。粘り強い質問者は、最初の反論に続いて、また反論します。そして、最後に発言者が、柔道の「参った」の合図に相当する、「もう少し考えさせてください」という恥ずかしい言葉をつぶやいたときだけ止められます。 そうすると、質問者は椅子に座り、まるで性交後のような満足感に浸るのです。

How philosophy sacrificed the truth. Victimhood is more important than biological reality
BY Kathleen Stock

 これに続く本論において、筆者は、哲学の議論を支配していた戦闘的な空気が21世紀になってから一変し、主にアメリカの影響のもと、ある意味において建設的、友好的な(お行儀のよい)議論の作法が導入されるようになったこと、しかし、この変化が深刻な問題を惹き起こしたことを取り上げています。

関連する投稿

コメントをお願いします。