Home 高等教育 「授業の恥はかき捨て」とすべきことについて(その2)

「授業の恥はかき捨て」とすべきことについて(その2)

by 清水真木

※この文章は、「『授業の恥はかき捨て』とすべきことについて(その1)」の続きです。

 私自身が教育を受けたのは、最初から最後まで日本の大学ですが、それでも、学部生、および大学院生として出席した演習、講演会、学会発表の大半を支配していたのは、上の引用と同じような空気でした。

 他の学問分野の場合、学会というのは、最新の知見を披露する場と見なされているようです。しかし、哲学では、演習や講演会や学会というのは、本質的に討論(あるいは反対意見のつぶし合い)の場であり——だから、発表の本体よりも質疑応答の方に長い時間が割り当てられることが少なくありません——発表が「無傷」で終わるなど、基本的にありえないことでした1 。当然、学会では聴衆が、授業では参加者が、上に引用した一節にも記されているように、反論しうる箇所を終始探し続けます。この意味において、これらはすべて、一種の口述試験であったと言うことができます。

 もちろん、冒頭に紹介した文章の筆者が述べているように、授業、学会、講演会等を支配するこのような戦闘的な空気は、あくまでも教室や学会会場のような人工的な空間の内部にのみ見出されるものであり、学界における対人関係が戦闘的であるわけではありません。プロのボクサーたちがリングの外では殴り合わないのと同じです。

 授業や学会では、それぞれの社会的な背景を捨て、当の問題に注意を集中して議論し、そして、その空間からひとたび外に出たら、それぞれごく普通の人間関係へと戻って行く、このような切り分けは、少なくとも私の経験の範囲では、哲学についてはごく普通でした。また、私自身は、たとえば演習のような少人数の授業には、学生としても、また、教師としても、このような態度で臨むべきであり、これが教室での授業の意義であるとかたく信じてきました。

 しかし、私が教師になってから実感したことがあります。すなわち、このような考え方の持ち主は、世間では例外的少数である、というよりも、むしろ、許されないもののようなのです。

 私自身は、授業で誰かが発表するのを聴くとき、あるいは、学会で誰かが発表するのを聴くとき、議論の誤りを反射的に探し始めます。「どこかに反論の余地はないか」と考えながら他人の話を聴くことは、当の話を本人の身になって理解するためにも大切なことであると私は確信していますし、私自身は、これを習慣として身につけています。

  1. 哲学の学会において参加者から嫌がられ、そして、悪意ある質問の標的となりやすいのは、パワーポイントのスライドを用いた発表です。学会で発表者が発表する内容は、あくまでも討論のための資料にすぎず、完成したものではないと一般に考えられているからです。 []

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