※この文章は、「『授業の恥はかき捨て』とすべきことについて(その1)」および「『授業の恥はかき捨て』とすべきことについて(その2)」の続きです。
当然、私は、かつては、少人数の授業を担当するときには必ず、出席する学生に対し、誰かの発表を聴くときには、矛盾や混乱がないかどうか吟味するよう求めました。教室は閉じた空間であり、すべての発言はその場かぎりのものなのだから、当の問題の注意を集中させて討論すべきこと、「授業の恥はかき捨て」と心得るべきことを強調していました。
けれども——私の授業の進め方が上手くないのでしょう——学生の多くは、他の参加者の発表にも私の話にも何の反応も示さず、発言を促すと、気持ちが悪いまでに行儀のよく当たり障りのない、「私はあなたを不快にさせません」という文の婉曲表現以外の何ものでもないようなことしか語ろうとしません。なお、これは、発表に対し質問する学生を事前に指定し、「必ず反論するように」と伝えておいた場合の話です。事前に質問する学生を指定しなければ、誰も何も発言しません。
実際、この文章の筆者は、最近の講演を支配する空気の変化の1つを、次のように表現しています。
また、聴衆がスピーカーに心からお礼を言うことから始まり、次のような平凡で焦点の定まらない質問を投げかけることも多くなりました。「講演の中でXという言葉を聞いて、とても興味を持ちました。そのことについて、もう少し話していただけませんか?(他の聴衆は、内心、お願いだからやめてくれ!)。新しい傾向として、破壊的な質問で話し手を追い出そうとするのではなく、話し手の主張のどこが悪いかではなく、どこが正しいかを特定し、建設的かつ協力的にアプローチしようとするようになりました。一般に、礼節を誇示する傾向が強まるにつれて、質問の水準は低下していったように思います。
How philosophy sacrificed the truth. Victimhood is more important than biological reality
BY Kathleen Stock
授業中に学生が発表し、そして、この発表に対し他の学生が何の反論もしなければ、授業が進行しません。そこで、仕方なく、私が矛盾や混乱を指摘することになります。私が学生なら、教師の雑な指摘など絶対にそのままでは受け容れず、まずは自分の理解や立場の正当性を——たとえいくらか無理であることがわかっていても——全力で説明するはずです。
ところが、私にとっては不思議なことに、発表した学生は、私の指摘に何の反応も示さず、自分が間違っていたとつねにアッサリと認めてしまうのです。もちろん、学生が認めてしまうと、そこで話は尽きてしまいます。結局、残った時間は、私がひとりで話すことで埋めなければならなくなります。
私自身は、「授業の恥はかき捨て」「学会の恥はかき捨て」という信条を抱いて学生時代を過ごしてきました。また、授業が自由な1 討論の場となり、本当の意味における知的な鍛錬の場となるためには、「授業の恥はかき捨て」という理解が広い範囲で共有されなければならない、私は今でもこのように信じています(が、これを私の目の前で実現することは無理であると観念してもいます)。
- この場合の「自由」とは、常識、良識、道徳からの自由を意味します。 [↩]