しばらく前、自宅の書庫を整理していたとき、浅羽通明『ニセ学生マニュアル』を見つけ、読み返してみました。ただ、読み返したとは言っても、私には、以前にこれを読んだ記憶がありません。事実上、初めて目を通したことになります。
この書物は、今から34年前、1988(昭和63)年、景気が爆発的に拡大し始めた時期に公刊されたものです。当時、私は、学部の2年生でした。
私の場合、部分的には景気のせいで、部分的には景気と関係のない個人的な事情により、嫌なことがたくさんあり、いわゆる「バブル時代」にはよい思い出が何もありません。当時は、世間からできるかぎり距離をとって暮らそうと努力していたような気がします。(「バブルのころは楽しかった」などとうそぶく同世代の人々は、私には理解不可能です。)
ところで、この時期に公刊されたそれなりに知的な刊行物の多くは——いわゆる「ニュー・アカデミズム」の悪しき影響なのでしょう——どこか昂揚したような、最先端の知との戯れを演じて見せようとする無駄に気取った雰囲気に支配されていることが少なくありません。この『ニセ学生マニュアル』の文章にもまた、このような傾向をいくらか認めることができます。
私には、「ニュー・アカデミズム」一般への親近感はありません。この時期の刊行物に特有の「ニューアカ」臭もまた好きではありません1 。それでも、この『ニセ学生マニュアル』は、高等教育の意義に関し、21世紀前半に生きる私たちを裨益するものであるように思われます。
ところで、『ニセ学生マニュアル』は、「第一部 啓明篇」「第二部 実践篇」の2つの部分に分かれています。この書物の本体に当たるのは、後半の「第二部 実践篇」です。ここでは、「ニセ学生」として潜り込むに値する関東と関西の主な大学の(講義を中心とする)授業(の授業科目名、曜日時限、キャンパス、教室)が、分野および教員ごとに短評によって紹介されています。
ここに名が挙げられている約100名の人々は、その大半がもはや存命ではありません。また、この本で授業が紹介され、かつ、34年後の2022年にもいずれかの大学で授業を担当し続けているのは、数名にとどまるはずです。このかぎりにおいて、『ニセ学生マニュアル』には、もはや実用的な価値はないと考えるのが自然です。(中篇に続く)
- 何年か前、少人数の授業において、ある有名な評論家の著作に言及したところ、出席者の誰もその評論家の名を知らなかったことがありました。そこで、私は、この評論家の特徴を一言で表すつもりで、「ニューアカの残党」と説明したのですが、残念ながら、肝心の「ニューアカ」の意味がわかる出席者が1人もおらず、しかし、関連する固有名詞を何一つ知らないと思われる学生に向かって「ニューアカ」をゼロから説明しても、学生の頭には何も残らないであろうと判断し、諦めて話題を変えたことがありました。 [↩]