※この文章は、「『ニセ学生』の消滅について(前篇)」の続きです。
それでも、たとえば「大岡信」「河合隼雄」「岸田秀」などの名とともに、その担当授業科目が掲げられているのを見ると、1980年代の終わりの「ニセ学生」のあいだでの人気や評価には、それなりに明確なすぐれた基準があったようにも感じられます。
『ニセ学生マニュアル』のうち、現在でもなお真面目に読むに値すると考えられるのは、「みえない大学をもとめて」という副題を持つ「第一部 啓明篇」の方です。
著者の浅羽氏の説明をあえて真面目に受け止めるなら1 、ニセ学生とは、単位の取得以外に何の関心もない本物の学生とは異なり、単位も資格も求めず、知的な意味における面白さだけを授業に求める存在です。つまり、ニセ学生ほど真面目な聴講者はいないことになります。
ニセ学生は、本質的に「独学者」であり、自分の関心に従い、複数の大学を横断してカリキュラムを主体的にデザインします。
一般に、授業は本質的に双方向的なものであり、授業の規模には関係なく、教師と出席者のあいだには、フィードバックを与え合う関係がつねに成立しています。そして、本物の学生が教師の話に反応せず、それどころか、教室にすら現れないのに反し、ニセ学生の方は、教室に熱心に通い、教師の話に積極的な反応を示すことにより、教師と出席者のあいだのこの双方向的な関係を乗っ取ってしまいます。その結果、授業の内容やレベルが、本物の学生ではなく、ニセ学生に合わせて決められて行くことになります。
たしかに、私自身、学生のころ、ニセ学生を見かけたことが何回かあります。ニセ学生は、授業に熱心に参加することでのみニセ学生として存在するわけですから、当然、極めて真面目です。
また、「見かけは大いに賑わっているが、実は出席者がすべてニセ学生」という授業が他の学部にあるという噂を耳にしたこともあります2 。
しかし、1990年代以降、大学の内外の環境は、ニセ学生にとって心地よいものではなくなりつつあるように思われます。
私自身は、学生のころにニセ学生を見かけたことはありますが、1995(平成7)年に初めて授業を担当して以来、教師としては、教室でニセ学生(と明らかにわかる出席者)を見かけたことは、これまでのところ一度もありません。私の話がつまらないからであるのかも知れません。(後篇に続く)
- 真面目なのかふざけているのかよくわからない浅羽氏の文章は、知的な余裕を欠いた21世紀の読者には受け容れられないかも知れません。 [↩]
- 学内の正統なカリキュラムに沿って単位をいくら取得しても、それだけでは、その授業を履修する前提となる知識を身につけることができないようなレベルが設定されており、履修登録して単位を取得する学生など学内にはいないという想定のもとで授業内容が決定され、授業が開講されているようでした。 [↩]