※この文章は、「『ニセ学生』の消滅について(前篇)」および「『ニセ学生』の消滅について(中篇)」の続きです。
ただ、自分のことを棚に上げ、一般的なレベルで大学を観察するなら、この30年くらいのあいだ、教育社会学が「大学の学校化」と呼ぶ現象、あるいは、「大学生の生徒化」と呼ぶ現象が急激に進行したことは事実です1 。
そもそも、大学当局も学生も、また、教師も、とかく忘れがちな点ですが、大学生というのは、自分が学籍を持つ大学が開講するすべての授業へ出席する権利2 を持っています。したがって、履修登録しているかどうかには関係なく、どの授業に出席するのも自由です。これは、いかなる意味でも違法ではありません。当然、特別な事情がないかぎり、大学当局には、これを阻碍することはできません。ただ、残念ながら、この権利を行使して面白そうな授業に出席することにより授業料の「もと」をとろうとする学生は、現実にはごく少数にとどまります。
しかし、現在は、大学が高等学校にかぎりなく近づき、学生の方も、高校生的なメンタリティを保持し、また、世間や民間企業では、高校生的なメンタリティを保持する大学生がなぜか高く評価されています。本物であるかにせものであるかに関係なく、そもそも「学生」がキャンパスから姿を消しつつあるのです。このような状況のもとで、大学は、全体として、わざわざ「学生」を装って教室に現れるに値する場所ではなくなりつつあるように思われます。
また、本物の学生にとり、自分の大学の授業に出席することが全面的に自由であるのに対し、自分が学籍を持たない大学の授業へ無断で——つまり、大学当局へ届け出ることなく——出席することは「盗講」と呼ばれ、厳密には犯罪に当たります。当然、2020年春の新型コロナウィルス感染症の流行により各大学が始めたオンライン授業において、ニセ学生の便宜が考慮されることはありませんでした。
ニセ学生の生息に必要なのは、「万人に開かれた教室」です。しかし、現在、ニセ学生のオンライン授業へのアクセスは、教師が個別に便宜を図るのでないかぎり、完全に遮断されています。ニセ学生は、授業に熱心に参加して授業を乗っ取る前に、テクノロジーによって排除されたのです。
浅羽氏は、制度としての大学が財政難によって衰微するとともに、教師の給料の歩合制への移行という形で魅力的な授業3 へのアクセスの自由化が進み、最終的に、教師と「ニセ学生」との双方向的な関係が大学という装置を媒介とするのをやめることにより、「ニセ学生」が消滅すると予想しています。
(この予想にあえて大真面目に反応するなら、)教師とニセ学生の双方向的な関係が大学の外にその可能性を見出すことがあるとすれば、その原因は、財政難であるというよりも、大学が世間に迎合するために「学問の自由」を放棄するときであるように思われます。
そして、この場合に成立するはずの「みえない大学」は、『ニセ学生マニュアル』が想定する「キャンパスを持たない不可視の大学」ではなく、「世間の目の届かないところに身を潜める隠者たちの大学」を意味することになるかも知れません。
- https://www.shidaikyo.or.jp/riihe/research/591.html [↩]
- もちろん、これは、出席して学習する権利であり、教室にただ居座ってスマホをいじる権利ではありません。 [↩]
- 念のために言うなら、この場合の授業の「魅力」とは、就職に有利である、面倒見がよい、理解できない学生を放置しない、などを決して意味しません。むしろ、その反対です。 [↩]