※この文章は、「『供給側からの高等教育論』のむなしさについて(前篇)」の続きです。
とはいえ、この「供給側からの高等教育論」は、つねに一種のむなしさにつきまとわれています。というのも、これは、他の2つのタイプの高等教育論(もどき)とは異なり、本質的な部分において、実現の見込みの乏しいものだからです。たとえば、「教養教育いかにあるべきか」というのは、「供給側からの高等教育論」に固有の論点です。(他の2つのタイプの立場から眺めるかぎり、「教養教育」などというものは、教育のリソースの無駄遣い以外の何ものでもないからです。)しかし、大学の教師が教養教育の意義をいくら強調しても、また、教養教育の使命を反映するようなカリキュラムが作り上げられたとしても1 、「外野」や「需要側」が教養教育の意義を無視したり、カリキュラムを骨抜きにしたりすることを避けることはできません。
新型コロナウィルス感染症の流行が始まったころ、ごく短いあいだ、学生生活に関する相談窓口の仕事を引き受けていたことがあります。これは、オンライン授業が一斉に始まり、学生の負担の増加が問題になっていた時期の話です。
あるとき、私が相談を聴いたある1年生が、私に向かい、「教養教育には何も期待していない」と直接言い放ったのを今でもよく憶えています。これは、私がいわゆる「教養教育」の担当者であることを知った上での発言です。
たしかに、これは、この学生に固有の意見であるというよりも、むしろ、「需要側」を支配する平均的なイデオロギー以上のものではありません。しかし、そうであるならなおのこと、教養教育というものは、入学したばかりで右も左もわからないはずであるにもかかわらず2 「教養教育には何も期待していない」などと当の担当者に直に言い放って悪びれることのない1年生を相手とするもの、したがって、途方もなく困難なものとならざるをえません。教養教育の理想がどれほど高邁であるとしても、また、教養教育なるものがどれほど長い歴史——直接には中世以来、起源を遡るなら古代ギリシア——を数えるものであるとしても、大学の教師は、現実と理想のあいだに認められる絶望的な落差によって日々神経をすり減らされることになるでしょう。
「供給側の高等教育論」が空虚に響くのは、これが、「外野」にも「需要側」にも一切歓迎されることがない孤立無援の思想であるからに違いありません。
- すでにこれ自体、絶望的に困難ではあります。 [↩]
- 形式的に考えるなら、大学生には、大学生であるかぎり、大学において行われる教育の内容を評価する資格はありません。教育というのは、教育を受ける側には、少なくとも教育を受けている時点では、その意義を適切に評価することができないことを前提として成り立つものだからです。(教育の内容を適切に評価することができるためには、これをすべて理解していなければなりませんが、すべてをあらかじめ理解しているのなら、そもそも、大学に入学する必要などないでしょう。)大学において授けられる教育の意義を適切に評価することができるのは、卒業したのちのことです。 [↩]