私の苗字は「清水」です。これは、日本に多い苗字の1つであり、日本人なら誰でも、苗字としての「清水」の発音が「しみず」であることを知っているはずです。「きよみず」と発音する「清水」を苗字とする人がいないわけではないとしても、これは、例外的少数でしょう。
それでは、なぜ「清水」は「しみず」と発音されるのでしょうか。自分の苗字であるにもかかわらず、私は、この問いに対する最終的な答えをまだ持っていません。
「しみず」という発音の正体に関するもっとも平均的で支配的な理解は、これを「重箱読み」と見なします。この理解に従うなら、「しみず」は「音読み+訓読み」であり、音読みを片仮名で表記するなら、「シみず」となるでしょう。実際、私が「清水」の発音について人生で最初に耳にしたのはこの説明であり、私自身、ながいあいだ、「清水は重箱読みの苗字である」と語ってきました。
しかし、「清水」を冷静に眺めればただちにわかるように、「清」に「シ」という音読みはありません。中国語圏のいずれかの地域の方言において「清」が過去に「シ」と発音されていた可能性がゼロではないとしても、少なくとも「清」を含む日本語には、これを「シ」と発音するものは見当たりません1 。
30年くらい前にこの事実に気づいてから、私は、「清」を「し」と読む理由を考え始めました。
最初に試みたのは、「清」あるいはこれに似た漢字、たとえば「青」「晴」「静」「瀬」などの用例に、これらの漢字を「し」と訓読みするものを探すことでした。しかし、今から振り返れば当然のことながら、求めるものは見つかりませんでした。そして、「し/シ」が「清」の音読みでもなく訓読みでもないなら、これは一体何であるのか、答えのないまま、途方に暮れていました。現在でもまだ途方に暮れています。
ただ、今のところは、「しみず」は熟字訓の一種と見なすのがもっとも自然であるような気がしています。熟字訓というのは、熟語全体を訓読みしたものです。熟字訓には、たとえば「一昨日(おととい)」「土産(みやげ)」「山車(だし)」のように、もとの漢字の音読みや訓読みの痕跡を一切とどめない熟語の発音とともに、「神楽(かぐら)」「木綿(もめん)」「梅雨(つゆ)」のように、もとの漢字の発音を部分的に残しているものもあります2 。「しみず」は、これを熟字訓と見なすなら、後者に当たります。
「水」を「みず」と訓読みするせいで、「しみず」は重箱読みと誤って受け止められていますが、本当は、「清水」は、「しみず」に対する単なる当て字として生まれた熟語なのかも知れません。
- 「清」を「セ」と読む例は、地名や人名にわずかにあります。 [↩]
- ただ、個別の熟語の発音を熟字訓と見なす明確な基準はないようです。実際、私が調べた範囲では、たとえば「しろうと(素人)」「くろうと(玄人)」が熟字訓に当たるかどうかについては、見解が一致してないようです。 [↩]