以前、音声入力が上手く行かない理由について取り上げ、音声入力を阻碍する表面的な原因が「ものを考えながら単語を排列するスピードが音声入力に追いつかない」ことであること、しかし、本当の原因は、「使用する語彙の違い」に求められるべきことを説明しました。
私たちの「考えること」とデジタル機器を用いて「書くこと」のあいだに認められるのは、これと同じような関係です。みずからの思考の内容に対して適切な表現を与えるのには、それなりの時間がかかります。手を動かしながら筆記具で文字を紙に記す作業において、そのスピードには、上限はあっても下限はありません。文字を手書きするとき、私は、(入力のスピードに思考を無理やり合わせる代わりに、)私の筆記のスピードの方を、私が考えるスピード、そして、考えられたことを整理し、これを表現するのに適切な表現を見出すスピードに合わせているのです。
ことによると、私のこのような主張を受け、「思考のスピードに文字を出力するスピードを合わせるのなら、デジタル機器を使って文字をゆっくり入力すればよいだけのことではないか、別に手書きなどという『先祖返り』を試みなくてもよいのではないか」という反論を即座に心に浮かべた人がいるかも知れません。
もちろん、デジタル機器を用いて「ゆっくり入力」ができないはずはありません。しかし、この「ゆっくり入力」することの実質は、進むことと止まることを小刻みに繰り返すことで、所要時間の帳尻を合わせる作業に過ぎません。デジタル機器による入力における「考えること」と「書くこと」の関係は、それ自体としてデジタル的なものなのです。
これに対し、手書きの場合、両者の関係は、本質的にアナログ的です。というのも、ここでは、「書くこと」のスピードが外面的に「考えること」に合わせてデジタル的に調整されるのではなく、考えることと、紙の上に手で文字を書き記す身体運動が最初から一体となっているからです。つまり、考えるスピードが書くスピードなのです。手書きの空間では、考えられた内容に表現が与えられてこれが出力されるのではありません。私たちは、書くことにおいて考えているのです。
ただ、写経に代表される「書き写し」では、書くことは、考えることと一体にはなりません。「書き写し」は、「思想に表現を与える」操作を必要としないからです。だから、文章をそのまま書き写しても、内容を記憶にとどめることは困難です。文章の内容を「書くこと」により記憶に残すためには、これを自分の言葉で語りなおすこと、つまり、書くことにおいて、書くこととして自分の言葉を紡ぎ出す知的作業がどうしても必要となるのです。