Home 言葉の問題 ふたたび手書きの効用について、あるいは「ゾンビ句」について

ふたたび手書きの効用について、あるいは「ゾンビ句」について

by 清水真木

 以前、次のような文章を書きました。以下は、これに関連する話です。(下に続く)

 1980年代から1990年代に公刊された日本語の(哲学関係の)書物を読んでいると、ワープロで執筆されたことが文面からわかるものにときどき出会います。そして、ワープロによる文章の執筆が、その内容によっては、文章に固有のクセを与えるものであることに気づくとともに、現在では、このクセが出版物の隅々にまで行き渡ったせいで、私たちがこのクセに対しかえって無頓着になっていることに気づき、愕然とします。

 もちろん、文章の性質によっては、このクセが読者の理解を促進する可能性がないわけではないのかも知れませんが、少なくとも哲学あるいはその周辺の高度に抽象的なテーマを扱う文章の場合、このクセは、むしろ、文章の文字数を無駄に増やすばかりであり、読者の理解を促進しないばかりではなく、むしろ、これを阻碍することになるように私には思われます。

 ワープロが文章に与える固有のクセとは、一言で表現するなら「冗漫」です。以前、私は、文章の冗漫について次の文章を書いています。

 文章をワープロで執筆するようになると、手書きなら忌避するはずの「単純な繰り返し」をためらうことがなくなります。

 たとえば画数の多い漢字を含む重要な表現を複数回使用しなければならない場合、手書きなら、主に時間と体力(あるいは腕力)を節約するため、同一の言葉の単純な反復を避け、代名詞を用いるのが普通です。しかし、ワープロの場合、同じ表現を繰り返すコストはほぼゼロですから、文章の内容が抽象的であるほど、著者は、誤読の危険を取り除くため、代名詞を避け、同じ言葉を繰り返し用います。そのせいで、ワープロで執筆された文章では、同じ表現、場合によっては、カギ括弧で囲まれた10文字以上の特殊な表現が1ページに10回も現れ、当然、その分、文章は長くなります。文章の長さが時間と体力の制約がなくなるとともに、簡潔に書くことへのインセンティブもまた弱くなるのです。

 (他の分野についてはわかりませんが、)哲学関係の文献の場合、この事態をもっともよく示すのが「間接疑問文」の氾濫です。「なぜ○○なのかということ、そして、いかにして▲▲になったかということ、これら2つが示されなければならない」というような感じの文がいたるところに姿を現します。

 誰かに何かを口頭で伝えるときには、上のような冗漫な形式で提示するのが普通であるかも知れません。しかし、文章を手書きするときには、上のような文字数には体力的に耐えられませんから、表現を整理し、「問題は、○○の根拠と▲▲の起源である」と簡潔に記すはずですが、腕力の制約を受けないワープロの使用により、冗漫な伝達形式が冗漫なまま文字に移されてしまうのです。

 前に書いた文章において、読者の理解を妨げる「ゾンビ名詞」(zombie nouns) に言及しました。たしかに、何もかも名詞化することは、文章の見通しを悪くします。それでも、これまで述べてきたようなクセを自覚することなくワープロで文章を綴ると、哲学の場合、内容に正確を期すことに注意を奪われ、「ゾンビ名詞」が姿を消す代わりに、名詞節、間接疑問文、関係節などの「ゾンビ句」(zombie phrases)(?)がページを跋扈するような状態に陥る危険が少なくありません。ゾンビを含まぬ簡潔で自然なスタイルで語ることは、特に哲学の場合、それなりに優先されるべき課題であるように私には思われます。

関連する投稿

コメントをお願いします。