昨日、ネットで次の記事を見つけました。
この記事には、発言した当の城内実氏のコメントが載っていますが、城内氏が「お花畑正義感の人たち」という言葉によって語ろうとしたことは、記事だけではわかりません。
また、朝日新聞のこの記事は、「お花畑正義感の人たち」という表現を差別的に理解するよう、読む者に求めているようです。しかし、これについてもまた、記事の範囲では、文脈が必ずしも明らかではなく、したがって、これが差別的であるかどうか、私には判断することができません1 。
ただ、それでも、記事で紹介された城内氏の発言を見るかぎり、少なくとも私には、城内氏の発言が必ずしも差別的であるようには感じられませんでした。
また、城内氏の発言について、その全体の内容も意図も不明であるとしても、確実なことが1つだけあります。「性的マイノリティの主張や要求のすべてにyesと言うことは、多様性の実現とは関係ない」点です。以下、少し丁寧に説明します。
あらかじめ言っておくなら、私自身は、性的マイノリティに対する差別には反対します。正確に言い換えるなら、性的マイノリティが他ならぬ性的マイノリティであるという理由によって不利益を被るような制度は是正、撤廃されるべきであり、これに反対することには大義がないと私は考えています。これは、以前に詳しく書いたとおりです。
しかしながら、注意しなければならないことがあります。それは、私たちの社会が一致結束して解消しなければならないのは、「性的マイノリティが性的マイノリティであるという理由によって不利益を被るような制度」です。また、性的マイノリティ、あるいは、性的マイノリティを支援する人々が不特定多数の他人に対して協力を要求することができる事柄があるとするなら、これもまた、制度上の不利益の解消だけでしょう。言い換えるなら、これ以上のことは、誰に対しても、何一つ要求したり強要したりすることはできません。なぜなら、民主主義の社会のもとでは、思想信条の自由が全面的に認められているからです。(後篇に続く)
- ある発言が差別的であるかどうかは、これを差別と受け取る人がいるかどうかによって決まると考えられています。つまり、ある発言を差別と判定する権利は発言した側ではなく、発言を聞く側にあることになります。しかし、ある発言を差別と見なす権利は、当の発言を、文脈に即し、話し手の身になって丁寧に聴き取る責務と表裏をなします。短い新聞記事の範囲だけで、「差別」のレッテルを貼ることには慎重になることが必要でしょう。
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