Home やや知的なこと 「お花畑正義感の人たち」について、あるいは、多様性の意味について(後篇)

「お花畑正義感の人たち」について、あるいは、多様性の意味について(後篇)

by 清水真木

※この文章は、「『お花畑正義感の人たち』について、あるいは、多様性の意味について(前篇)」の続きです。

 「性的マイノリティに共感すべきである」「性的マイノリティと連帯すべきである」「性的マイノリティを嫌悪するのは反動的である」などという主張を表明することは、もちろん、誰にでも許されています。しかし、これと同じように、「性的マイノリティには近づきたくない」「LGBTは気持ちが悪い」という気持ちを抱き、これを言葉や態度で表す自由もまた、万人に与えられているのです。好き嫌いというのは、個人の完全な自由の範囲にあることだからです。性的マイノリティに理解を示し、性的マイノリティと連帯するのが正義であるわけではなく、性的マイノリティに嫌悪感を抱くのが不正義であり悪であるわけでもないのです。性的マイノリティを不公正に扱う制度や、性的マイノリティを不公正に扱おうとする個人の行動を支持することは不正義に当たりますが、性的マイノリティに対する嫌悪感を表明することは、それ自体としては、言論の自由の範囲です。

 もちろん、現実には、これらはつねに一体となっており、その境界は決して明瞭ではありません。それでも、性的マイノリティの権利が認められるとは、誰もが性的マイノリティを歓迎したり、誰もが性的マイノリティに共感したりすることをいささかも意味しません。これら2つは厳密に区別されなければならないでしょう。

 そもそも、思想信条の自由や言論の自由というのは、自分とは異なる意見の持ち主と共存する義務と一体をなしていると考えるのが自然です。性的マイノリティが嫌いな人々には、政治家を含め、「私は性的マイノリティを気持ち悪く感じます」と表明する自由がありますし、性的マイノリティの方には、このような連中の存在に耐える責任があります。

 そして、思想信条と言論をめぐる自由と責任という観点から眺めるなら、民主主義というものが「不快の分かち合い」のシステムであることがわかります。民主主義の社会に生きるとは、複数の異なる意見、複数の異なる利害、複数の異なる好悪のせめぎ合いの当事者になることであり、この意味において、不快な他人に耐えることを意味します。

 もちろん、この不快の「総量」は少ない方が好ましいに決まっています。また、少数派が不快を一方的に押しつけられることもまた、避けなければなりません。不公正な制度の撤廃とは、適正な——つまり、正常な神経の持ち主なら耐えられる程度の——量の不快の適正な再分配を意味するのであり、制度をどれほどいじっても、法律をどれほど変更しても、教育の内容をどれほどあらためても、意見、利害、好みのせめぎ合いが解消されることは決してありませんし、この点において、「生きづらさ」がなくなることもありません。冷たい他人や腹立たしい他人というのは、民主主義に生きるかぎり、また、社会における多様性に価値を認めるかぎり、万人が耐えなければならない存在であると考えるのが適当です。

 冒頭に掲げた記事には、次のように記されています。

会合の出席者によると、城内氏は会合の終盤で、「美しいポリコレ(政治的な正しさ)みたいなものでストーリーをつくって、それを疑問視する人をひたすらたたくお花畑正義感の人たち」とも言及。そうした人たちは「多様な価値観、多様な市民を、ステレオタイプでやっているんじゃないか」などと語ったという。ひたすらたたくお花畑正義感の人たち」とも言及。そうした人たちは「多様な価値観、多様な市民を、ステレオタイプでやっているんじゃないか」などと語ったという。

自民・城内氏「お花畑正義感の人たち」 性的少数者の差別めぐり発言

 「性的マイノリティを不快にさせるようなことを語るのは、それ自体として悪であり不正義であり、決して許されない」ことを主張する——これが上に引用した一節で用いられている「美しいポリコレ」の意味でしょう——なら、これが多様性の否定に辿りつくことは、誰の目にも明らかでしょう。

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