※この文章は、「『進歩的』な常識にあからさまに異議申し立てすると、上から目線で『コロナで心の余裕を失ったかわいそうな人たち』に否応なく分類され、対話の相手ではなく、同情や治療や懲罰の対象にされてしまう(危険がある)残念な社会について(その1)」の続きです。
ところが、現在の日本ほどコミュニケーション能力が不足している社会はないはずであるのに、残念ながら、共有するものの少ない他人とのあいだでの対話にわが国の社会ほど不熱心なところはないように私には思われます。
この点に関し、昨日、次の記事をネットで見つけました。
今回の事件の当事者のインタビュー、事件の再現、そして、ベビーカーに関する路線バスのルールの解説が記事の前半にあり、後半では、ベビーカーに子どもを乗せたまま乗車する場合の注意点が簡単に記されています。
しかし、この記事を読み、強い印象を受け、そして、背筋が凍る思いがしたのは、「コロナ禍でも頻発するベビーカートラブル 背景は?」という見出しのもとに記された次の一節です。
子育ての課題に詳しい「NPO法人せたがや子育てネット」代表の松田妙子さんは、背景には、根深い社会の不寛容さがコロナ禍で助長されている一面があると指摘します。
「NPO法人せたがや子育てネット」代表 松田妙子さん
「子どもを大切にしようとか、社会で子どもを育てようと言うけれど、実際の世間はそうではない側面がある。ただでさえ今コロナで余裕のない気持ちの人が増えている。自分と違う人を排除したい、怖い、敬遠するという傾向が強まっていて、お互い無関心な社会になってしまっている」
上の一節を読んだとき、私は、「また不寛容か!」と心の中で思わず叫びました。21世紀の前半には、「不寛容」による説明は、便利な、しかし、手垢にまみれた紋切り型になっており、トラブルの原因は「不寛容」であると言われても、残念ながら、意味のある説明を受けた感じを持つことができません。
むしろ、他人の行動の背景に「不寛容」を探し、これによって事柄を説明したつもりになっている人々の方が、実際には、はるかに不寛容であり狭量であるように私には思われます。このような人々は(今回の事件についてはよくわかりませんが、一般的には、)ベビーカーを畳むことを強く求める人を見つけると、上で述べたような形で相手の事情を想像することなく、「子育てに理解がない」「コロナで余裕がない」かわいそうな人というレッテルを貼ることをためらわないからです。
現代の日本では、「子どもを大切にすべき」「社会で子どもを育てるべき」というのは、公言してもあからさまに反論されたり論争に巻き込まれたりする危険が決してない主張であり、この意味において、絶対に安全な「正論」です。このようなことを主張する人々は、正義が自分たちの側にあるということを一切疑いません。表立って誰からも反論されることがない以上、自分たちの立場や主張を疑うきっかけがないからです。